韓国人の「反日」感情は強いと、よく言われる。無理やり国を併合されて三五年間も支配され、その間に無謀な戦争にも付き合わされたのだから、それも仕方ない。だが、今やその植民地支配が終わって七〇年、過去を清算して国交を開いた一九六五年の日韓基本条約から五〇年もたった。この間に日本は奇跡的ともいえる韓国の経済成長や民主化を支援してきた。人の往来が五百倍にも伸びたほか、さまざまな交流も深まり、日本にはドラマやKPOPの韓流ブームも起きた。首相らは謝罪も繰り返したし、サッカーのワールドカップ(W杯)共催でも和解ムードは盛り上がったはず。もう、そろそろ勘弁してほしい……というのが多くの日本人の偽らざる気持ちだろう。
にもかかわらず、日韓の政治関係は昨今、「最悪」とまで言われるようになってしまった。従軍慰安婦の問題がこじれたのをきっかけに二〇一二年夏、李明博大統領が竹島(韓国名、独島)行きを断行した。一方、そのあと日本に登場した安倍晋三首相は二〇一三年暮れに靖国神社の参拝を断行するなど、歴史認識をめぐる言動で韓国を刺激する。これに反発する朴槿恵大統領が「正しい歴史認識を」と求めて日韓首脳会談に応じようとしない。こんな首脳たちの応酬は、国交が開かれて以後、ありえないことだった。そんななか、日本を覆っていた韓流ブームも熱が冷め、いつしか「嫌韓」ムードに切り替わった風がある。
いったい、これはどうしたことか。若いころソウルへ留学して以来、この国に関心を寄せてきた私は、日韓条約五〇周年を控えて韓国の知日派を中心とする知識人らに連続インタビューを試みた。この五〇年をどう評価し、現在、そして未来をどう考えているのか、意見を交わしたかったからだ。おかげで元外交官や学者、首長、作家、ジャーナリスト、歌手、スポーツ選手、そして市民運動家など多彩な十八人に登場していただき、さまざまな声を聴くことができた。
その結果はこれからゆっくりとお読みいただくとして、まずはその前提として、戦後の日韓関係について整理をしておきたいと思う。
一九一〇年から三五年間にわたった朝鮮半島の植民地支配に幕が下ろされたのは、日本が太平洋戦争に敗れた一九四五年のことだ。それから日韓に国交が開かれるまでに二〇年の歳月を要したわけだが、それを含めた七〇年間を私は次の四期に分けて考えている。
第一期(一九四五〜六五年)国交のなかった不正常な時期
第二期(一九六五〜八八年)韓国の軍事政権下での反共の連携期
第三期(一九八八〜二〇〇二年)韓国の民主化による自然な友好増進期
第四期(二〇〇三年〜)諸矛盾の噴出による友好の反動期
まず第一期は、日韓の間に国交がないまま混乱が続いた時代である。この間に朝鮮半島は南北に分かれて激しい朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)を戦った。日本は韓国支援に出動する米軍に基地を提供して後方から支えながら、戦争の「特需景気」によって経済成長の道を歩み出した。一方、反日色が鮮明な韓国の李承晩政権はいわゆる「李承晩ライン」を引いて竹島(韓国名、独島)を自国領に組み入れ、実力占拠に至る。李ラインを越えた漁船は拿捕し続けた。日本は抗議を繰り返したが、植民地支配に対する罪の意識や反省が乏しかったこともあり、日韓の国交交渉はもめ続けて一四年にも及ぶのだった。
第二期は、六二年の軍事革命で生まれた朴正熙政権のもと、ようやく日韓基本条約の締結にこぎつけたところから始まる。米国とソ連・中国による東西冷戦が深刻な時代にあって、韓国の軍事独裁政権と日本の強固な保守政権が「反共」によって結び合うという戦略的関係だった。竹島の問題は事実上、棚上げされた。朴大統領は七九年に側近の銃弾に倒れて一八年の治世を終えたが、「反共連合」的な構造は次に生まれた軍事政権の全斗煥体制でも引き継がれた。この間、日本の経済協力もあって韓国は飛躍的な経済・社会の発展をとげた。
だが、日韓はいわばお互いの「嫌な点」に目をつぶりながらの連携だった。日本人は韓国の独裁政権に眉をしかめ、韓国民は日本に植民地支配の反省が乏しいと不満だったのだ。この矛盾が時に大きく噴き出す。七三年に野党政治家の金大中氏が韓国の情報機関に拉致されるという衝撃的な事件が東京で起きる一方、八二年には日本の歴史教科書が「歪曲だ」と激しく問われたのはその代表的な例だった。
第三期は韓国の民主化とともに始まった。八七年、国民の直接投票による大統領選が行われて元軍人の盧泰愚氏が勝ち、翌年に政権に就く。八八年にはソウル五輪も開かれ、韓国の近代化と民主化に拍車がかかった。長く野党の政治家だった金泳三氏、さらに金大中氏が大統領となって、それが極まった。
世界的には冷戦時代の終わりに重なり、これを背景に日本では自民党の一党支配が終わった。「非自民」の連立による細川護煕政権や、自民党が社会党党首をかついだ村山富市政権が生まれると、首相による「侵略」や「植民地支配」への謝罪が続いた。戦後五〇年にあたる九五年の「村山談話」がその典型だ。また、金大中大統領と小渕恵三首相が九八年に署名した「日韓パートナーシップ共同宣言」は和解の頂点となり、二〇〇二年のW杯共催はその象徴的な催しとなった。映画、ドラマ、ポップスの世界に広がる韓流ブームも盛り上がりのきっかけをつかんだ。
だが、実はこれと並行して第四期につながる不穏な空気も生まれていた。民主化や近代化によって高揚する韓国民には、かつて強権的に抑えられた「抗日」の気分が育ち、戦後補償の問題などでそれに呼応する裁判所の判断も続く。一方、首相が謝罪をつづけた日本には「いつまで謝ればいいのか」というストレスが生まれていた。従軍慰安婦や竹島問題の表面化、あるいは首相の靖国神社参拝、さらに「村山談話」の見直し論も争点となって今日に至る。
第四期をどこからと見るかは判断が難しいが、あえて二〇〇二年にW杯共催が終わったときを区切りにしてみた。すでに小泉純一郎首相の靖国参拝などで対立の芽が出ていたが、対立の激化を抑えていたW杯共催という共通目標がなくなったことで、矛盾が次々に噴き出したからだ。この年の九月には小泉首相が日朝の国交正常化をめざして平壌を訪問したが、拉致された日本人の存在がはっきりしたことによって、かえって北朝鮮への激しい感情が噴出したことも、日韓関係に響いた。また、このころから強大化した中国が何かと日本とぶつかり合うようになる一方、韓国がかつて敵国だった中国と親密になっていったことも影を落としている。こうしたことは六五年にはまったく考えられないことだった。
さて、私が朝日新聞の記者として初めて韓国の土を踏んだのは七九年八月だった。ソウルのほか板門店などの軍事境界地帯も視察し、日本ではわからない緊張を味わったが、たまたま翌八〇年には自民党のグループに同行して北朝鮮を訪れ、この国の創建者だった金日成主席にも会えた。今度は北から板門店を訪れるという貴重な体験もした。
そんな偶然が重なったことから志願して八一年秋から一年間、ソウルに留学して韓国語を学ぶことになる。留学中にソウル五輪(八八年)の開催が決まったほか、歴史教科書問題の噴出によって日韓に横たわる大きな溝を思い知らされた。その後はほとんど東京での政治取材に明け暮れたが、全斗煥大統領の訪日と歴史的な天皇との会見(八四年)を取材するなど、日韓の外交を間近に見る機会は多かった。九三年に発足した「日韓フォーラム」にも参加し、何かと韓国との縁も深まった。
留学以来、あっという間に三〇年以上の歳月が流れたが、二〇一三年一月に朝日新聞を退職したのを機に、すっかり錆びついた韓国語を少しでも取り戻そうと、半年の「再留学」を試みた。その後に始めたのがこの一連のインタビューだった。
さて、前置きはこのくらいにしておき、さっそく韓国の皆さんに登場していただこう。
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