1883(明治25)年〜1962(昭和37)年。フランス、ヴァル=ド=マルヌに生まれる。イスラーム神秘主義、ことに神秘家アル・ハッラージュ研究の先駆的泰斗。若き日に父親の知人だった作家J・K・ユイスマンス、沙漠の修道士シャルル・ド・フーコーに出会い、強く影響を受けた。四巻の大著『アル・ハッラージュの受難――イスラームの神秘家と殉教』は近代イスラーム思想研究を代表する大著。直観と洞察の知見を実証的に論じる彼の研究態度は、井筒俊彦に大きな影響を与えた。信仰者としては敬虔なカトリック教徒であり、晩年にはカトリック・メルキト派の司祭になった。イスラームとの対話において、第二バチカン公会議でも、指針に大きく影響を与えた。
井筒俊彦は、マシニョンの研究に触れ、こういっている。
ハッラージュを論じる時のマッスィニョン。あれはもう我々が常識的に考える「学問」などというものではない。全人間的「変融」体験の極において「アナ・ル・ハック」(我こそは神)と、己れの死を賭して叫んだ、あるいは叫ばざるをえなかった西暦十世紀のスーフィーと、二十世紀の真只中でそれを"じか"に受けとめる、マッスィニョンという魁奇な一精神との実存的邂逅の生きた記録、でそれはある。それが尽きせぬ興味を惹き起し、たんなる学問を遥かに越えた不思議な世界に我々を誘う。(「R・A・ニコルソン『イスラーム神秘主義におけるペルソナの理念』への序詞」)
井筒俊彦は晩年といっていい時節、それまでの沈黙を破るように、自らに強く影響を与えた人物について語り始めた。西脇順三郎、大川周明、除村吉太郎、イブラヒム、ムーサーといった実際に交わったひとだけではない。サルトルの影響について直接的に語ったのもこの頃である。マシニョンもその一人だった。学者に対し井筒俊彦がこれほど熱い文章を書いた例はない。
イスラーム最初にして、最高の神秘哲学者イブン・アラビー。井筒俊彦のイスラーム研究はこの人物と老荘の形而上学を、比較・統合的に論じたSufism and Taoism に代表される。井筒俊彦はハッラージュこそ、イブン・アラビーの登場を準備したといったが、この類比はマシニョンと井筒俊彦にも当てはまる。マシニョンの精神を最も正統的に継承したのはフランス宗教哲学界の弟子たちではなく、極東の国に生まれた井筒俊彦ではなかったか。哲学は知的理解に留まらず、危機にある世界を強く支え、時代を生き抜くために、ときに変革を迫る実践的営為でなくてはならないという認識において、二人は深く一致している。
マシニョンはコレージュ・ド・フランスの教授であり、当代一流の学者だったが、ガンディーを崇敬する活動家でもあった。マシニョンは「バダリヤ ; Badaliya」というイスラームとキリスト教の架橋たるべき運動体を創設し、多くの時間をその実践に捧げた。ジャック・デリダは「バダリヤ」に思想家マシニョンの核を見出している。マシニョンの生涯は井筒俊彦がいう理想的人間としての「神秘家」の定義に合致する。
井筒俊彦のいう「神秘家」とは単なる神秘体験者のことではない。彼は「神秘家」の一語に独自の意味を託している。恍惚に留まる人間を、彼は真実の「神秘家」だとは認めない。神秘家とは求道において無私を貫き、「神」体験を経たのちは、自らの身を世界に捧げつくすという実践的人間に他ならない。
ユングの意向が強く反映されていたエラノスでは、政治的発言の禁止が暗黙の規定になっていた。マシニョンはそれを破り、以後、エラノスへの参加ができなくなる。マシニョンがはじめてエラノスに参加したのは第5回1937(昭和12)年、それ以降、断続的に1955(昭和30)年まで参加を続けた、エラノス勃興期と隆盛期のはじめを象徴する重要な人物の一人だった。
エラノスは東西の霊性的統合を目的としていたが、現実社会で起っている精神の破壊を前に、直接的に関与することをためらうなら、その試みも、虚しいというのである。
ユダヤ教、キリスト教、イスラームに貫通する超越的実在を「アブラハムの神」といい、そこに歴史的連環を論じる人がいる。マシニョンの「神」体験も、そうした絶対者に直結するものだった。
「神」はハッラージュというムスリムを通じて彼の前に現れた。マシニョンがハッラージュを知ったのは、フランス政府の考古学の調査でバクダッドへと赴いたときだった。このとき彼はイスラームの霊性に深い関心があったのではない。むしろ、ハッラージュと彼を現地で迎えたムスリムの人々が、彼の進む道を大きく変えた。
マシニョンのイスラーム神秘主義への開眼が、そのままカトリシズムへの復帰的回心につながっているのは偶然ではない。他者を真摯に知ろうとするとき、かえって人間は己れの深みを知る。この逆説的な出来事こそ、真実の「宗教」体験ではないのか。自己の信仰を貫くために、他者のそれを否定する必要はない。信仰とは自己を知る始まりではなく、むしろ他者理解の基盤である、これはマシニョンの深い確信だったと思われる。
|