1904(明治37)年、鹿児島県徳之島生まれ。戦前を代表する哲学者の一人であり、日本における最初のキリスト教哲学者。今も彼を凌駕することは容易ではない。キリスト教に出会ったのは相次ぐ親族の死が切掛けだった。内村鑑三の門を叩き、のちに岩下壮一に出会いカトリックへの入信を決意する。岩下壮一の仲立ちがあってフランスへ留学、ジャック・マリタンに師事する。帰国後、思想界だけでなく、文芸の世界でも発言し、カトリック総合文芸誌「創造」を創刊するなどして、ある時期、日本におけるカトリック・ルネサンスともいうべき潮流を作った。戦時中の座談会「近代の超克」に、小林秀雄、中村光夫、河上徹太郎、西谷啓治、下村寅太郎らとともに参加している。1943(昭和18)年末から病床での生活を強いられ、1945(昭和20)年10月に亡くなった。
吉満義彦の著作はよく読んだ、と井筒俊彦は遠藤周作との対談でいった。41歳で亡くなった吉満義彦は、主著を公にする前に逝かなくてはならなかったが、もしも、彼の一巻選集が編まれるとすれば「神秘主義と二十世紀思想」、「神秘主義の形而上学」、この2つの論考が外れることはないと思う。井筒俊彦はおそらくそれらを読んでいる。
日本で最初にイスラーム神秘主義を論じたのは井筒俊彦ではない。吉満義彦である。1943年に発表された「神秘主義の形而上学」で吉満義彦は、イスラーム神秘主義スーフィズムの巨人アル・ハッラージュを論じた。
井筒俊彦が「アラビア哲学」でハッラージュに触れたのは、それから5年後のことである。また、ハッラージュ論で二人に続いたのは、先に触れた諸井慶徳である。
井筒俊彦の『アラビア思想史』は、吉満義彦が「神秘主義の形而上学」を書いた2年前に出版されている。日本人によって最初に書かれた、このイスラーム神学・哲学史研究を吉満義彦が知らなかったとは思えない。
「神秘主義の形而上学」で吉満義彦は、プロティノスをはじめパタンジャリのヨーガ、シャンカラに代表される古代インド神秘思想、ハッラージュとスーフィズム、十字架のヨハネに至るキリスト教神秘主義を論じた。
井筒俊彦が『神秘哲学』で最も多くの頁を割いたのは「プロティノスの神秘主義」だった。パタンジャリ、シャンカラなど古代インド思想が、長い間井筒俊彦の関心の対象だったことは『意識と本質』やエリアーデ論に明らかである。井筒俊彦は十字架のヨハネに関する論考を準備していた。
関心の対象は驚くほどに一致している。さらに重要なのは2人の関心対象の一致以上に「神秘主義」に対する彼らの根本的な態度である。
「神秘主義と二十世紀思想」の最初で吉満義彦は「神秘主義」は定義することはできないといった。また、「神秘主義の形而上学」で、吉満義彦が論究したのは「ミスティク」――吉満義彦がいう「ミスティク」は、井筒俊彦が『神秘哲学』でいう「神秘家」あるいは「神秘道」と同義である――における主体という問題だった。
井筒俊彦も、『神秘哲学』の序文で、まず神秘主義の定義不可能性をいった。また、同書の第1章は「自然神秘主義の主体」と題されている。
吉満義彦はいう。「真のミスティクは観念的自我の自己観想ではなく、あくまでも我々の精神(魂)の源泉者自らの実在を定立する実在体験(認識)でなければならず、そこに又所造的精神性の最高の愛の験証が」なくてはならない。
真実の神秘体験とは、人間が人間を知る経験ではなく、魂の源泉者すなわち超越者自らが自身の存在を明らかにする出来事でなくてはならない。また、それが真実のそれであれば、至高愛の横溢を伴うという。「人間が、神を体験するのではなくて、寧ろ神が自らを体験する」と書いたのは井筒俊彦である。
吉満義彦はいう。「最深の神秘的人間はまた最深の行動的人間である」。同じ言葉が井筒俊彦の『神秘哲学』にあっても驚かないばかりか、『神秘哲学』の根本問題に直結している。
井筒俊彦が学問的な態度において最も影響を受けたルイ・マシニョンは、ジャック・マリタンが主催していたムードンのサロンに参加していた。留学時代、吉満義彦はこの人物に会っている。
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