井筒俊彦に、アラビア語の師は二人いる。一人はアブデュルレシト・イブラヒム、もう一人は、ムーサ・ビギエフ、ともにトルコ語を母国語とする韃靼(タタール)人だった。
イブラヒムがはじめて来日したのは1909(明治42)年。このときは数か月の滞在に留まったが、1933(昭和8)年に再来日し、1944(昭和16)年に日本で没する。彼は多摩霊園、外国人墓地に眠っている。イブラヒムは、近代イスラームを代表するジャーナリストだが、イマームを務める宗教的指導者でもあった。イマームは聖典を暗記した者が務める役職。公の礼拝を司る導師のこと。
井筒俊彦がイブラヒムに出会ったのは、すでに日中戦争は始まり、慶應義塾大学の助手になったばかりのころというから、1937(昭和12)年以降である。再三にわたって面会を求めた井筒俊彦に会うには会ったが、当初、アラビア語の教授という申し出をイブラヒムは頑強に拒んだ。イブラヒムはアラビア語の教師ではない。無論、その日本滞在の目的はイスラーム文化の啓蒙でもない。このとき彼は、汎イスラーム運動の領袖だった。
井筒俊彦がイブラヒムとムーサについて語ったのは最晩年のこと。司馬遼太郎との対談「二十世紀末の闇と光」のときだった。イブラヒムはマホメット伝の英訳本を手に「この本は、アメリカから来たばっかりだ」とアラビア語で話し掛け「わかるかね」と尋ねた。憧れの古典アラビア語を生で聞き「うれしくて大変だった」と井筒俊彦は書いている。青年の感激が伝わったのか、一つだけ条件をつけ、老人は懇願を承諾する。アラビア語だけを勉強するなど意味がない、イスラームを一緒に勉強するというのである。週に一度というイブラヒムの提案にもかかわらず、井筒俊彦はほとんど毎日通った。
2年後、イブラヒムはいった。「おまえは、生まれつきのイスラーム教徒だ。生まれたときからイスラーム教徒なんだから、おれの息子だ」。
ある日、すごい学者が来たといってイブラヒムは井筒俊彦をモスクへと連れて行く。 「ムーサー先生」と井筒俊彦がいう人物こそ文字通りの天才だった。聖典とその周辺の書物はいうに及ばない。「神学、哲学、法学、詩学、韻律学、文法学はもちろん、ほとんど主なテクストは、全部頭に暗記してある」。原典を記憶していただけではない。注解書を複数覚えていて、かつ自分の意見があるという人物だった。
この人物もまた学者であるとともに革命家、そして宗教者でもあった。ムーサも、ペトログラードの大寺院でイマームの職を務めた。その後、メッカに暮らすこと3年、ロシアで出版社を開業するが、革命後、ロシア政府の迫害に遭い、国外への移住を強いられた。トルキスタン、中国を経て、日本に来た。日本滞在は2年、多くの日々を井筒俊彦はともに過ごした。「行脚漂白の師」と井筒俊彦がいうようにその後、彼はイラン、エジプト、インド、イラクなどのイスラーム圏を放浪し、1949(昭和24)年、61歳でカイロに没した。
存在者はすべて、「神」の創造物、「神」の栄光を表現している。永遠が存在するなら、それは偏在する。人間はいつでもその根源的生命に直接触れることができる。それがイスラームの霊性、イブラヒム、ムーサはそれを体現していた。それをできるだけ目撃するのは人間の「神聖な義務」である、二人が生涯を旅に終えたのはそのためだった。
井筒俊彦の夫人豊子氏は、夫のよき理解者であるだけでなく、井筒俊彦の命題のいくつかを引き継ぎ、自身も論文を書くという人物である。彼女には小説集もある。そのひとつ、「バフルンヌール物語」にムーサが登場する。小説中の「青木辰夫」のモデルは井筒俊彦である。
ムーサが日本をあとにして、しばらく行方が知れなくなっていたころのこと、外務省の役人が青木に連絡してきた。ムーサに会ったというのである。「日本には自分の弟子がただ一人いる、青木辰夫を知っているか?」とムーサは外交官にいった。
伝言を受け、青木は「快速で帆走っていたような青年時代を」思い起しながら眼を潤ませつつ、耳にムーサのアラビア語を聞く。「植えられた場所で朽木になるような生涯はつまらないよ、タツオ」。
井筒俊彦は、あるときから世界へ活動の場をもとめた。ここにムーサの影響を看過してはならない。イスラームは、こうした実存的な動機においても、彼に色濃く影響を残している。
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