書肆光の書房の経営者。雑誌「科学と哲学」を刊行。光の書房とは別に、「哲学道教団・神秘道附属哲学修道院 ロゴス自由大学」という事業体の代表でもあった。書籍の奥付によると、「光の書房」は、書籍の販売、「哲学修道院 ロゴス自由大学」は、出版の「企画と刊行」を担うと記されている。生年、没年、出身地など、出版活動以外の情報で上田光雄について分かっていることは、ほとんどない。カント『純粋理性批判』、シェリング『神とは何か』、フェヒネル(フェヒナー)『宇宙光明の哲学/霊魂不滅の理説』の翻訳者、著述家としては『ハルトマンの無意識の哲学』を残している。
カント、シェリングはよく知られている。フェヒナーは、今日ではあまり読まれなくなったが、若き柳宗悦も影響をうけた人物、19世紀、ドイツに生まれ、物理学者として出発し、後年には哲学者となった。上田光雄が訳した著作は世界で広く読まれたフェヒナーの代表作である。エドゥアルト・フォン・ハルトマンがいう「無意識」は精神分析のそれとは異なる。彼は宇宙にも、意識あるいは無意識があるということを説いた孤高の思索者である。高橋昌一郎が著作で、ハルトマンの思想は現代の宇宙物理学者に接近すると言及している。
上田光雄の出版事業は1947年から49年の2年間にわたって行われたと思われる。国立国会図書館の記録を参照し、筆者もそこに未収録の書籍を可能な限り集めたが、先の期間の前後に活動した痕跡は見られない。
起業は光の書房が先である。出版企画を受け持った事業体は、その年の12月に刊行された『世界哲学講座』第1巻から確認できる。『世界哲学講座』は全19巻、付録1巻の計画だった。井筒俊彦の『神秘哲学』はその第14巻として刊行される。第一巻は金倉円照の『印度哲学史』と岩崎勉の『希臘哲学史』の合本である。金倉円照は古代インド哲学の泰斗、岩崎勉はアリストテレスの研究者、『哲学における救いの問題』という著作もある。そのときの名称は「日本科学哲学会」と記されていただけで、翌年そこに「ロゴス自由大学」の文字が加えられた。「哲学修道院」などという特異な名称を上田光雄が初めから使っていたのではない。
井筒俊彦と光の書房の関係は前年5月にさかのぼる。『世界哲学講座』の5巻に彼は『アラビア哲学』を書いている。1949年5月、『意訳・純粋理性批判』の中巻が出た時、突然、「哲学道教団・神秘道附属哲学修道院」の名称が使われる。『神秘哲学』の刊行は、それから4ヶ月後である。「哲学」は学問の一形態である以前に、叡智界を目指す「修道」である。それは上田光雄の信念でもあっただろうが、『神秘哲学』の絶対軸でもある。
最後にこの機会を利して、私は一言、本書の出版者たる上田光雄氏に深い感謝を捧げたい。本書の執筆はもとより私自身の発意ではなく――自己の菲才を知り抜いている病身の私が、これほど大がかりな仕事を、どうして自分から思いたつことができよう――始めから上田氏の熱烈な支持と激励とにはげまされてとりかかったものなのである。幸いにこの著作が、形而上学的情熱に燃える若き人々の伴侶として何らかの意味に於いて役立つところがあるとすれば、そして、今後もつつがなく私が、この仕事を継続することができるとすれば、一切の功は私にではなく、上田氏に帰さるべきである。(『神秘哲学』初版 序文)
ここに書かれた言葉はそのままに受けとめなくてはならない。「哲学道教団・神秘道 附属 哲学修道院」という名称が生まれてくるだろう対話が、二人の間で行われたことを想像するのは難しいことではない。
「今後もつつがなく私が、この仕事を継続することができるとすれば」というのは大げさな表現ではない。井筒俊彦は『神秘哲学』を、文字通り「血を吐きながら」書いた。結核である。
著者はもとより、書肆の側も、これが最後の作品になる可能性を感じないわけにはいかなかっただろう。だが、その一方で、病苦の現実をあえて否もうとする「近刊予告」が残っている。上田光雄の文章だと思われる。
第一巻(ギリシアの部)を完成した著者は、病弱の身を挺して更らに第二巻(ヘブライの部)の原稿約一〇〇〇枚の尨大な執筆に専念されている。この第二巻は、旧約聖書の人格神信仰から説き起して、その強烈なヘブライ神秘思想が時と共に第一巻のギリシア思想と衝突し闘争し遂ひに融和して、ユダヤ教の方ではアレクサンドリヤのフィロンの神秘主義を生み、キリスト教の方では使徒パウロの神秘主義を生み、そして最後に聖アウグスティヌスの神秘主義によつて決定的に統一されるまでの雄大なヘブライ神秘哲学の精神史的光景を描いた学界未踏の珠玉篇である。単なる文献学的研究書又は傍観的解説書の多い我国哲学書中にあつて、本書の著者はその優れた学究的叙述の行文の間に、神秘的実存としての著者自らの内心に燃え上るパトス的な魂の叫びと崇高なる実存的自覚の体験を躍動開示し、読者をして思はず「哲学道」の法悦境に参入せしめずには措かぬ。第三巻以下も続刊。
井筒俊彦がすでに相当量の原稿を書いていたことがわかる。続刊は刊行されなかった。作者の「病弱の身」だけが、続編の出版を難しくしたのではない。『神秘哲学』を発刊後、まもなく、光の書房は倒れた。
『神秘哲学』と同社の、同時期に刊行された出版物と比べてみる。本の作り、装丁、広告の表現を見ても、この著作刊行に上田光雄が抱いた期待が伺える。おそらく彼は『神秘哲学』に自社の再生と一人の思想家の誕生を賭けたのだろう。会社閉鎖の理由はわからない。しかし、この作品が二十世紀を代表する哲学者の原点となった事実は、上田光雄の眼力の確かさを証している。
彼が井筒俊彦を見出さなければ、『神秘哲学』は生まれることはなかっただろう。また、哲学者井筒俊彦誕生の時節も変わっていたかもしれないのである。
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