父親の勧めがあって、1931(昭和6)年、井筒俊彦は慶應義塾大学経済学部予科に入学する。経済学部での学校初日、隣接した座席にいたのが、池田彌三郎と加藤守雄だった。3人はともに、文学への熱情を引きずったまま、経済学部に入ったことで意気投合する。翌年そろって文学部へと転部。井筒俊彦はそこで、西脇順三郎、折口信夫、奥野信太郎、松本信廣に出会うことになる。後年、井筒俊彦が、「友」といえばまず、池田彌三郎を思い出すと書いているように、2人の友情は生涯を貫くものとなった。
「文学は生まれつきの天才の仕事だ。天才よりちょっとでも下のものが文学なんかやったら惨めなものだぞ」(対談「思想と芸術」)と父親は井筒俊彦にいった。
井筒俊彦が雑誌「詩と詩論」を通じて西脇順三郎を知ったのが10代中ごろ、おそらくギリシア哲学との邂逅も同時期、もしくはすこし遅れてだと思われるから、大学を受験するとき、文学への熱情は彼を駆り立てるに十分だったといっていい。
しかし当時は「まあ、お前程度の才能では三流学者になれるのがいいところだろう。安全な道を取ったほうがいい。経済をやって会社にでも入れば、とにかく食うだけのことはできるだろう」(「追憶」)という父親の言に抵抗する自信もなく、気乗りもしなかったが、慶應義塾大学の経済学部を受けた。当時も難関で知られた狭き門だったが、「運命のいたずらか、何を間違えたのか、ひょっこり通ってしまった」。中学4年生のときだったと、井筒俊彦は書いている。
西脇順三郎のシュールレアリズムに心酔していたという青年が経済学部に満足できるはずもなく、1年間のカリキュラムが終わると、加藤守雄、池田彌三郎をつれだって、銀座数寄屋橋へ行き、橋の上から簿記原論の分厚い教科書を泥川に叩きこみ、「これできっぱり経済とは縁を切ってやったとばかり、意気揚々として文学部の乗り込む次第となった」。
文学部に入ると、井筒俊彦は西脇順三郎の門を叩くのだが、逡巡が全くなかったわけではない。折口信夫の存在である。加藤守雄、池田彌三郎の2人は折口信夫の門下に連なった。今では民俗学者として知られる池田彌三郎も最初から折口信夫を追って文学部に入ったわけではない。青春の日に彼は哲学をこころざし、「どうしても哲学だ。哲学をやって、イケダ・テツガクを創るんだ」(「幻影の人」)と熱っぽく語り、その気勢に「あっけにとられた」と井筒俊彦は書いている。折口信夫の講義は青春にある若者にとって蠱惑に満ちた体験となった。井筒俊彦は伊勢物語の購読を受講した 。
異常な体験だった。古ぼけたテクストが新しい光に照らされると、こうまで変貌してしまうものか。私は目をみはった。がそれよりもどことなく妖気漂う折口信夫という人間にそのものに私は言い知れぬ魅惑と恐怖とを感じていたのだった。危険だ、と私は思った。この「魔法の輪」の中に曳きずりこまれたら、もう二度と出られなくなってしまう」(「師と朋友」)
「学問はひとりでするもの、孤独者の営みでなくてはならない」、これが井筒俊彦の信条だった。「折口先生とは正反対で」、「西脇先生は根っからの孤独者だった」と井筒俊彦はいう。孤独者は1カ所に留まることにではなく、運命に従う。彼は安岡章太郎との対談で自らを「運命論者」だといったが、何を学ぶかと、どう学ぶかが不可分であることを考えれば、ここに井筒俊彦の学者としての立ち位置は決定したといっていい。だからこそ、世界へと活動の場を広げ、国際的評価において碩学と称されるようになっても、井筒俊彦が西脇順三郎を唯一の師だというのである。
とはいえ、彼に折口信夫の影響が少なかったのではない。西脇門下になったあとも、彼は折口信夫の講義への参加を続けただけでなく、その内容を西脇順三郎に伝えていたという。『意識と本質』にも折口信夫の名前は出てくる。『意識と本質』の副題は「東洋哲学の共時的構造化」だが、井筒俊彦が折口信夫に発見した異能は、学問の共時的展開、ここでの場合、時空の制限を超越した詩的直観の鋭敏さとその経験に論理の肉体を付与し、現在に蘇らせる存在の根源的なエネルギーである「コトバ」の力ではなかったか。
しかし、文学部で井筒俊彦が経験した特記すべき学問的事象は、言語学との出会いである。「言語学こそ、わが行くべき道、と思い定めるに至ったのは」西脇順三郎が講じるソシュールを聞いたころだった。井筒俊彦が明確な意思のもと言語哲学に踏み込んでいくのも、このときからそう遠い日のことではなかった。
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