井筒俊彦入門
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  エラノス

エラノス

   
 

 エラノス、あるいはエラノス会議、エラノス学会ともいう。資産家の娘オルガ=フレーベ・カプテインの着想にルドルフ・オットー、カール・グスタフ・ユングが共鳴してはじめられた東西の哲学、宗教、芸術、科学を包含する学際的試み。Eranosはギリシア語で「語らいの饗宴」を意味する。1933(昭和8)年に第一回が開催されて以降、1988(昭和63)年まで50余年にわたって行われた。(現在行われているエラノスは井筒俊彦が参加していたそれと名称は同じだが、目的と方針には違いがある。)エラノスはスイス、アスコーナのマジョレ湖畔で、夏、十日間行われることを通常とした。十人に満たない、しかし各界を代表する人物が講演者として招聘され、あらかじめ設定された命題について、公衆にむけて講義し、また、講演者とその随伴者のみが非公開で対話する。井筒俊彦は1967(昭和42)年、最初の参加以来、1982(昭和57)年まで15年に、12回の講義を行い、後半はエラノスの方向性を決定する中核的役割を担っていた。

 

 

 ある日、オルガ・フレーベ=カプテインに、直感的経験が訪れる。世界は多様化したが、世界観はイデオロギーでむしろ単純化され、二分化し、争いを繰り返している。政治、経済はいうまでもなく、世界は宗教の差異において、本来真理を自由に追究する哲学的見解においてすら、分裂の危機に瀕している。その統合的再生のほか、霊性の飢餓ともいうべき状況を打開する道はないと彼女は思う。

 

 それを試みる人間はたしかに存在している。しかし、彼ら、彼女らは皆、個別に黙々と自らの信じる営みを行うに留まり、一堂に会することはなかった。そうした人々に集結の契機を提供し、言葉を交わすなかで、混迷を打破する新しい「世界観」を構築することができるのではないかというのがオルガの眼目だった。彼女の想念にユングとオットーが強い共感を示したことで、思いは一気に大きなうねりになる。

 

 エラノスと名付けたのはユングではない。『聖なるもの』の著者であり、インド神秘哲学の泰斗でもあったオットーである。エラノスがユングによって牽引されたのは事実だが、その設立の精神基盤には、井筒俊彦も指摘するように、オットーの思想が脈々と流れている。オットー自身は病苦のため、エラノスにはほとんど参加できなかったが、一見相反するものを高次な次元で融合するという態度は、オットーの宗教哲学の基底を流れる精神に他ならない。

 

 エラノスの試みと多様性は歴代の参加者を眺めるだけでもよくわかる。ミルチア・エリアーデ(宗教学)、アンリ・コルバン(イスラーム神秘主義)、ジャン・ブラン(哲学)、ゲルショム・ショーレム(ユダヤ神秘主義)、アドルフ・ポルトマン(生物学)、ジェイムズ・ヒルマン(精神分析)、カール・ケレーニイ(神話学)などが参加し、それぞれ重要な役割を果たした。初期の参加者には、マルティン・ブーバー(ユダヤ哲学)、ルイ・マシニョン(イスラーム哲学)などもいる。井筒俊彦が参加する十余年前に鈴木大拙が二度、正式講演者として招かれている。

 

 定められたテーマを大きく逸脱しなければ講演の内容は自由。講演者はそれぞれの専門からの接近と深化を試みる。一例をあげれば「神秘家のヴィジョン」「人と世界の交感」「一なるものと多なるもの」「色と象徴」「想念と神話的イマージュ」などである。

 

 エラノスに招かれることがなければ、東洋哲学の碩学としての井筒俊彦は生まれなかったかもしれない。井筒俊彦が初めて参加したとき選んだ演題は「道教における完全なる人間」だった。その後、彼が論じたテーマは「禅のことは勿論」、「孔子の意味論、ヴェーダーンダ哲学、華厳、唯識などの存在論、易の記号論、二程子・朱子に代表される宋学、楚辞のシャマニズム等々」(「『エラノス叢書』の発刊に際して」)である。

 

 「意識と本質」の読者はすでに気が付いているだろう。エラノスでの命題はそのまま「意識と本質」へと流入する。「意識と本質」の初回が発表されたのは1980年の1月、彼はその執筆中もエラノスに赴いている。井筒俊彦はエラノスでほとんどイスラーム思想に触れることがなかった。ここには彼の強い意図があったと思われる。

 

 エラノス本部は講演者のそれぞれのプロフィールをつくる。彼らが井筒俊彦の専門領域として定めたのはイスラーム哲学ではない。「哲学的意味論」だった。

 

   
   
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若松英輔

 

 1968年新潟生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。評論家。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。2010年より『三田文学』に「吉満義彦」を連載中。『読むと書く――井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、2009年)『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010年)を編集。2011年処女著作となる『井筒俊彦――叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)を刊行。

 

 

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