池田彌三郎は、銀座4丁目、和光の近くにあった天麩羅屋の老舗、「天金」の息子だった。彼は慶應義塾大学文学部に在籍中、店のPR誌という名目で文芸同人誌「ひと」を主宰していた。「親父は学歴も何もない天ぷら屋の親父だけれど」書棚には柳田國男、折口信夫の本が数多く並んでいたと池田彌三郎がいうように、父親も文学に理解があったのだろう。家業の宣伝というのは題目に過ぎない。彌三郎本人を含め、周囲にいた文学好きの青年たちが作品を寄せた。
「井筒俊彦君との交際」というエッセイで、池田彌三郎が「ひと」に寄稿した井筒俊彦の散文詩「ぴろそぴあはいこおん――philosophia haikôn」を紹介している。
海は暗くなっていた。しとしと時雨の降る日海岸の砂に天井を向いて寝ていたら、まっ白い土人がそろそろとはい寄って来てこんな事を言った。私は東へも西へも平気で飛ぶ鳥になって蝶々の夢が見たいです。昔あなたの国にローシとか言う人がいて、その弟子にバショーとか云う人がいましたっけ? 万物は流転して一理ありですか。あなたの国では分らない人が多ぜい居るそうですね。私達は生れるときから知ってます。うかうかするとイカルスになると云うことじぁありませんか。海でもだめ、空でもだめ、ああ! 地平線が恋しい。僕は答えた、ああ僕も地平線が見える。だけど、僕は海が恋しいんだ。おお、タラツタ。タラツタ。ふと見たら白い土人は何処かへ居なくなって、大きなALBATROSSがグルグル空を旋回していた。そしてマラルメの笑いを笑っていた。――(虚実論)――
語学の才能は豊かだが井筒は文学を解さないと、嫉妬混じりにいっていた同級生たちも、先の詩には驚き、見解を改めざるを得なかったという。「西脇順三郎先生の全訳に先立つ20年も前の話である」と池田彌三郎は書いている。この作品のほかにも井筒俊彦は、T・S・エリオット「荒野」の全訳を彌三郎に渡したという。原稿は散逸してしまった。筆致を知ることはできないが、あったという事実だけでも、井筒俊彦が詩を愛した証拠にはなるだろう。
西脇順三郎の詩に出会ったのは10代の半ばだったと井筒俊彦は書いている。形式にそれを感じることはできるが、その影響を確認するだけでは不十分だ。歌われた世界はむしろ、老年の井筒俊彦を予感させる。
老荘の世界に対する憧憬、芭蕉を老荘の霊性的継承者、古代ギリシアの存在論、霊魂論に、そしてマラルメに触れる世界。その道は「意識と本質」へとつながっている。
後年の世界的な碩学となる彼から、詩を書いた20歳の井筒俊彦を見ているのではない。むしろ、20代の思いを老年まで新鮮まま、保つことができた異才には驚いている。
井筒俊彦の業績を年表通りに読んでみる。若き日、ほとんど啓示のように舞い降りた想念にどこまでも忠実だったことが分かる。関心領域を広げていくことは、必ずしも拡散を意味しない。ある命題を、複数の領域で確認するということは、むしろ原経験に対する誠実の証でもあろう。
言語学から出発し、イスラーム思想、ギリシア哲学、ロシア文学、フランス象徴詩、言語哲学、日本古典文学、インド哲学、仏教、ユダヤ思想と、どこまでも領域を広げて行ったかに見える彼の遍歴も、本人にはむしろ、一点に収斂していく自然な道ゆきだったのかもしれない。
それは、詩とコトバ、あるいは詩のコトバという命題、ここでいう詩は、文学の形式に限定されない。人間が発し得る言語の究極相。
コーランは詩である。新約聖書、論語、老子、荘子もまた、と井筒俊彦はいうだろう。
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