かつて、井筒俊彦は、「アラビア哲学とは回教諸民族が自己の思想活動より創り出せる一の新しい思想体系、新しい哲学思潮ではなくして、アラビア語の衣を被ったギリシア哲学そのものである」(『アラビア哲学』)といったことがある。彼のいう「ギリシア哲学」とは、通常の哲学史が教えるそれと、少なからず様相を異にし、ギリシア-ローマ時代では完結しない。起源は神話時代にさかのぼり、密儀宗教時代を経て、イオニアの自然哲学者、プラトン、アリストテレスを経て、2世紀ローマ時代のプロティノスを経て、数百年の歳月を間にイスラーム哲学として再び顕現する、精神的伝統を意味する。
中村光夫は『フロオベルとモオパッサン』で、天才において、青春がいかに決定的な影響を刻むかは、凡庸なる人間の想像を超えるといったが、井筒俊彦にも同じことがいえる。彼がいつギリシア哲学に親しむようになったか明確な時期はわからない。しかし、20歳をまたない、10代中ごろの出来事だと思われる。その邂逅は青春期を決定する「事件」ともいうべき出来事だった。
あまり自伝的事実を書かなかった井筒俊彦だったが『神秘哲学』の序文は例外で、告白的といっていい文体で、父親と過ごした特異な、若き日々が綴られている。そこで彼はギリシア哲学との出会いは、幼少期から父親に強いられた、禅の呪縛から自らを解放し、混迷から救ったといった。彼の父親については別に論じることがあるだろう。実業家にして神秘家、行道を重んじる求道者だった。
西欧の神秘家達は私にこれ(父親の説く徹底的に思索を否定する修道)と全く反対の事実を教えた。そして、特にギリシアの哲人達が、彼らの哲学の底に、彼らの哲学的思惟の根源として、まさしくvita comtemplativaの脱自的体験を予想していることを知ったとき、私の驚きと感激はいかばかりであったろう。私は、こうして私のギリシアを発見した。(『神秘哲学』)
彼にとってギリシア哲学との出会いは学問的開眼というよりも、哲学的回心ともいうべき出来事だった。“vita comtemplativa”を井筒俊彦は「観照的生」と訳し、『神秘哲学』において、ギリシアの哲人たちの営為を、この一語に収斂させ、論じた。「観照」とは冥想や思索という静的な営みをいうのではない。むしろ全身を賭して行われる、存在の根底を追い求める祈りだといっていい。
次の一節は井筒俊彦のいう「哲学者」の定義を物語る。
イデア観照が彼にとってどれほど幸福であろうとも、彼はこの超越的世界にいつまでも静止滞存することは許されない。存在究境の秘奥を窮めた後、ふたたび俗界に還って、同胞のために奉仕すべき神聖な義務が彼に負わされている。喧噪の巷を遁れ、寂寞たる孤独の高峰上にひとり超然として「一者」の観照にふけることによってではなく、あえて隠逸の山を下り、身を俗事に挺して世人のために尽瘁することによってのみ、プラトン的哲人の人格は完成するのである。(『神秘哲学』)
「宗教」は信徒にだけ、救済を約束する。哲学は、「宗教」の壁を突き破り、万人に大きく扉を開く。井筒俊彦は、同じ文章で自らを「その世界観に於いて純然たる一のプラトニストである」だといった。
彼は学問的系譜について発言しているのではない。哲学徒は、「身を俗事に挺して世人のために尽瘁することによってのみ」実現される「神聖な義務」を有す、自らもまた、それを実践するのみである、という、一つの宣言ではなかったか。
晩年近く、著作集がまとめられたとき、彼は生涯をふりかって、『神秘哲学』を、自らの思想的原点であるといった。ギリシアは、のちに彼がいう「東洋」の時空的領域にも影響する。後年、「東洋」の定義を尋ねられ、彼は「ギリシア以東」だといった。そういう彼にとって、ロシアあるいはロシア文学もまた、「東洋」と無関係なはずはなかった。
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