井筒俊彦入門
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  越知保夫

おち・やすお

   
 

 1911(明治44年)〜1961(昭和36)年。詩人、批評家。関西から越境して、暁星小学校に学んだとき、カトリックの洗礼をうけ、高校時代には吉満義彦の薫陶を受けた。学生時代、左翼運動に参加。投獄され、このころから宿痾となる結核に苦しむことになる。獄を出た後、吉田健一が発行人となり、中村光夫、山本健吉らが同人だった雑誌「批評」に詩を寄稿し、後年、関西を拠点とする同人誌「くろおぺす」に参加。「小林秀雄論」「ルオー」、古今集を中心に論じた古典論「好色と花」などを書いた。越知保夫は生前、著作を発表することなく、没後2年、有志によって遺稿集『好色と花』が編纂される。生前から彼を認めていた中村光夫、山本健吉、平野謙、松原新一といった批評家だけでなく、遠藤周作、島尾敏雄といった小説家、カトリック司祭井上洋治も、彼の言葉に強く反応した。


 


 井筒俊彦はおそらく越知保夫を知らない。越知保夫もまた、哲学者井筒俊彦の著述を知らない。しかし、二人は一冊の本を起点に深く交わることになる。
 翻訳者としての井筒俊彦は一稿をもって論じていい命題である。『コーラン』『ルーミー語録』『存在認識への道』といったイスラームの聖典、古典の翻訳者であることは周知の事実だが、彼にマルティン・ダーシーの『愛のロゴスとパトス』の翻訳(三邊文子との共訳)があることはあまり論じられていない。翻訳が刊行されたのは1957(昭和32)年3月、同年の12月に『コーラン』が刊行された。井筒俊彦の最初の翻訳が、イスラームに関連するものでなく、カトリック司祭による愛をめぐる論考だったことは注目されていい。
 ダーシーは、カトリックのイエズス会士であり、イギリス管区長の重責を担っていた。また、彼は20世紀中期イギリスを代表する哲学者でもあった。1953年、ダーシーは知的交流協会の招きで日本を訪れる。このとき、井筒俊彦はダーシーと親交を深め、自らその著作の訳者になることを申し出たのだった。
 『愛のロゴスとパトス』は世界でも広く読まれ、日本でも良き読者を獲得した。しかし、井上洋治やヨゼフ・ロゲンドルフといったカトリック司祭は別に、ダーシーの著作を論じた者はほとんどいない。越知保夫は50枚を超える論考「『あれかこれか』と『あれもこれも』――ダーシーの『愛のロゴスとパトス』を読む」を書いた。この作品は題名からが想起されるように、書評の範疇に属するものではない。ダーシーの思想を基軸に、日本人が、キリスト教とその異端における愛を実存的に論じた最初の批評なのである。今もそれを凌駕する論考を私は知らない。
 先に名前を挙げた「好色と花」もまた、越知保夫による「愛」論である。彼がいう「好色」はエロスであるとともに、アガペに変貌する種子である。そして、「花」が象徴するのは世界に存在する万物である。越知保夫は、愛は常に、存在と存在者とともに論じなくてはならないという。世界が在ることと人間が生きることは不可分の出来事だというのである。
 越知保夫は「存在」と「存在者」を弁別できる稀有な批評家だった。井筒俊彦が愛し、また深く論じた神秘哲学者イブン・アラビーは、超越的絶対者を「神」とはいわずあえて「存在」と呼んだ。「存在」は「存在者」を、自己展開的に分節する。「存在」は自らが母胎となり、絶えることなく創造を続ける。そこから生まれ出たものが「存在者」である。
 だから、花が存在するといってはならない。「存在」が「花」するのであると井筒俊彦はいう。井筒俊彦の存在論は、そのまま越知保夫のそれに呼応する。越知保夫の「存在」観にカトリシズムあるいは中世哲学が影響していることはもちろんだが、それに勝るとも劣らず、彼の世界観を決定しているのは小林秀雄である。「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない。」(「当麻」)という小林秀雄の一節もまた、イブン・アラビー、そして井筒俊彦の存在論に強く共鳴する。

 

 「在る」ということは、常に我々を驚かすものである。単なる物にすぎないものが、たとえば道とか樹木とか家屋とかが突然その存在の固有の相で、言いかえればそのものがそのようにあるということ自体で不意に我々に話しかけてくることがある。その時、その道その樹木その家屋はプレザンスである。それは存在し、かかるものとして現前する。そしてその固有の持続の中に我々をひき入れる。(「小林秀雄の『近代絵画』における『自然』」

 

 「『あれかこれか』と『あれもこれも』」を含む越知保夫の全ての作品に、彼について書かれた文献も併録した『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾出版会)が刊行される。そこには彼のクローデル論がある。井筒俊彦もまた、二つのクローデル論を書いた。越知保夫はそこで真実の実在である「霊」に触れ、井筒俊彦は永遠を論じた。

 


 

美と愛と聖性を鮮烈に論じた代表作「小林秀雄論」、
フランス文学論,芸術論,古典論「好色と花」など、越知保夫(1911〜1961)の全作品を収録。
   
       

小林秀雄――越知保夫全作品

   
越知 保夫 著、若松 英輔 編
   

▼越知保夫の遺稿集『好色と花』(筑摩書房、1963年)に、未収録の詩・批評・劇作や書簡、さらには編者による小伝・年表・著作一覧を付して復刊。
▼「批評」や同人誌などで40〜50年代に評論家・詩人として活動した越知は、特に一連の小林秀雄論が秀逸。吉田健一らにその才能を認められ、遠藤周作や須賀敦子に影響を与えた。近代のシニスムを打破する者として小林を捉えるなど、独自の小林秀雄論を展開。

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  四六判/上製/544頁 | 初版年月日:2010/05/07
ISBN:978-4-7664-1738-8 |  定価:2,520円
   
   
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若松英輔

 

 1968年新潟生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。評論家。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。2010年より『三田文学』に「吉満義彦」を連載中。『読むと書く――井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、2009年)『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010年)を編集。2011年処女著作となる『井筒俊彦――叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)を刊行。

 

 

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