1914(大正3)〜1961(昭和36)年。宗教学者、宗教哲学者。天理教神学の歴史は諸井慶徳の『天理教神学序章』『天理教教義学試論』に始まるといっていい。主著は博士論文『宗教神秘主義発生の研究――特にセム系超越神教を中心とする宗教学的考察』、と『宗教的主体性の論理』である。彼は井筒俊彦と同じく、30を超える言語に通じていた。語学力を駆使し、テキスト原野に分け入るという研究態度だけでなく、イスラームにおいてはコーランに神秘主義発生の始原を発見し、スーフィズムを論じ、さらにはキリスト教においては、パウロに教神秘主義の源流を見ると哲学的視座において、諸井慶徳と井筒俊彦は一致する。諸井慶徳は3月30日、井筒俊彦は前年の5月4日の生まれである。二人は互いの存在を知りつつも、おそらく会ったことはない。
諸井慶徳の試みは、神学研究とは一線を画す。彼は神学を、研究したのではない。神学を樹立しようとした。それは、天理教という一宗教内の出来事に留まらない。教祖的な人物を別に、近代日本で神学と教義学の樹立を強く意思した宗教者がどれほどいただろう。諸井慶徳の営みは、そのほとんど類例を見ない独創的な営みとして評価しなくてはならない。
天理教内での位置とは別に、宗教学者としての彼も、学会内で広く注目を集めていた。36歳のとき、日本宗教学会の理事に選出された。博士論文を公にしていない、一冊の著作もない人物を京都大学が招聘しようとしたという事実も、また、諸井慶徳の特異な才能の一端を物語っている。
イスラーム神秘主義研究において、井筒俊彦が容易に追随を許さない業績を残しているのは事実だが、彼がほとんど単独でその分野を切り開いたかのような記述は事実にそぐわない。井筒俊彦もこよなく愛したイスラームの神秘家アル・ハッラージュの研究において、諸井慶徳は先駆的なだけでなく、今日も凌駕されない研究を残している。ハッラージュ研究の一点においては、井筒俊彦に比べても、諸井慶徳の業績は傑出している。
諸井慶徳のイスラーム研究が、私たちに垣間見せる深みは、彼が天理教の信仰者であることと無関係ではないだろう。絶対的普遍者としての一神教、啓示の介入と教祖の出現、聖典の誕生、さらに聖域 の認識、天理教とイスラームそれぞれの宗教生誕の経緯は、驚くほど似ている。
二者の近似を、単に比較宗教学的に論じても、深みがそこを通じて現れてくるとは思えない。
宗教研究において最も重要なのは、文献を渉猟するための語学力でも、洞察力、想像力でもない。
「神」への恐怖にも似た畏敬と、沈黙にも似た讃美と信頼であると諸井慶徳はいうだろう。信じることを怖れる者に、宗教はその門を開かないという思いは、彼の信条だといってもいい。
信じる道程を通過することなく、真実の知に到達することはできない、それは井筒俊彦の動かない確信だったと思われる。信じるとは単独者としての人間と絶対者の関係を示す。それは誤解と偏見、過ちを背後に控えつつ生きるということ、誰にも肩代わりしてもらうことのできない営為にほかならない。
井筒俊彦と諸井慶徳の二人が特出し、また、看過できないほどに近似しているのは、学者としての諸能力と業績よりも、むしろ、知的営為において、その実存的経験から決して遊離しなかった点である。
諸井慶徳は、宗教哲学研究において、暫時でも天理教者としての信仰を否定し、客観性を装うということはしなかった。井筒俊彦も、父親との修道と、少年期の神経験、青春期の「コトバ」経験にあくまでも忠実だった。そこに強烈な批判と黙殺が待っていたとしても、である。
顧みればこの根柢を知ることは人間にとって、本質的になされ得ることではなかった。そもそも絶対になし得ない事柄なのであった。(中略)造り主は造り物の根底を知る。およそ根柢とはその成り立ちの始元を知る者によって教えられ、告げられてこそ初めて知らされるべきものであろう。(「天理教教義学試論」)。
諸井慶時は続けて、人はその真実を「ただ知らされることによってのみ知り得る」と書いている。知ることは、すべて想い出すことだとプラトンはいい、井筒俊彦はあるところで、自らを一介のプラトニストだといった。
来年は2011年、諸井慶徳が亡くなってから丁度、50年が経過したことになる。
|