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高齢化社会と日本人の生き方  立ち読み

『高齢化社会と日本人の生き方
岐路に立つ現代中年のライフストーリー』
  

まえがき―〈生き方としての学問〉へ

 

小倉 康嗣 著
 
 

 「高齢化社会」という言葉が世間に流通してから久しくなった。けれども、「高齢化」という社会現象が私たち人間存在にとって意味せんとすることを、学知が、他人ごととしてではなく、自身の「生き方」の問題としてどれだけラディカルに考えてきたかと思いを馳せてみると、いささか心もとない。

 高齢化社会の問題は、「高齢者」という特定の人びとの限られた問題ではない。私たち(全世代)一人ひとりの「生き方」の問題である。

 「進歩・成長」「上昇・拡大」「生産性・生殖性」「効率性・有用性」「機能合理性」といったことに価値を置いて推し進められた近代産業化が輝かしい成功を遂げ、物質的豊かさが達成されていくなかで、長寿の一般化が実現した。しかし、この近代産業社会の果実たる高齢化という現象は、働き盛りの壮年期に中心的な価値を置く中央集権的な人間形成観のもとで機能合理的に処理され、その意味や価値を矮小化されてきた「老い」「病い」「死」といった人生後半の意味地平を前景化させた。

 それは、「下降」「有限性」「喪失」「依存」「弱さ」「非合理性」といった生(life)の局面を含み込んだ意味地平であり、近代産業化を推し進めた一本槍のモノサシでは立ち行かない意味地平である。そしてその地平は、老いの季節だけではなく、何に価値を見出し、いかに生きていくか、というトータルな「生の枠組」(人間存在のあり方・人間関係のあり方)それじたいを根本的に問い直していく。

 近代産業社会の果実たる高齢化という現象が、逆に近代産業化を推し進めた「生の枠組」を相対化し、問い直していくという逆説的状況。そのなかで、何を信じ、どう生きていくのか。まさしく私たち一人ひとりの「生き方」がラディカルに問われてくるのである。

 本書において、この意味での「生き方」を概念化する術語が「人間形成」であり、「社会化」であり、「エイジング」であり、最終的に知見として見出されてくる「人間生成」という概念である。

 そして本書は、《人間形成のありようが根本的に問い直される歴史的変革期としての高齢化社会のなかで、人間存在と社会とのかかわり合いをどう考え、そしてその存在論的基盤をどこに求めていけばよいのか》という基本的な問いをめぐって展開されている。

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 また、高齢化社会を上述のように認識し直すとき、学知のあり方も鋭く問われてくる。

 高齢化社会とは、これまでの定番の「生き方」を固めていたさまざまな鎧が剥ぎとられて、絆(つながり)とは何か、人間がよりよく生きるとはどういうことなのか、そしてその人間の生にとって社会はどうあるべきなのか、さらには人間社会と自然との関係をどう考えるべきなのか、といったことが、その根本から問われてくる社会である。と同時に、これらの問題にごまかさずに向き合っていけば、そこからとても豊かな新しい「生き方」や絆が切り拓かれていく可能性を持った社会でもある。

 社会の高齢化によって逆説的に浮上してきた人生後半の意味地平は、これまでの社会が中心的な価値を置いてきた人間形成観の貧困さを問い、耕し直し、豊饒化させていく可能性を含み持っている。だが、その可能性は、いかにして見出されるのであろうか。そして、その可能性を見出していくために、学知はどうあるべきで、どんな貢献ができるのか。

 未曾有の経験のなかで、いかに生きるべきかという壮大な「生き方」の実験を、一人ひとりが日常生活のなかでやっていかなければならない高齢化社会。もはや出来合いの物語が生きる拠りどころにはならないとするならば、さきの可能性を見出していく知とは、新たな意味や価値を模索する人びとのさまざまな試行錯誤の「経験」と、実践的=参与的に交流していくような知であろう。それは、たんに客観的ポーズで(あるいは理念的に「倫理」や「他者」概念を持ち出して)現象を記述したり批判したりするのではなく、研究者自身の生をあげてコミットメントしていくなかで生成されていく「経験」を素直に感受し、意味づけ、それを多くの人びとの経験的検証へと開いていくような知ではないだろうか。

 つまり、学問主体の生(実存)それじたいをも学問のフィールドの内に入れ込み「生活世界」の相互関係へと開いていく、いわば〈生き方としての学問〉ということが問われていると思うのである。

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 本書は、二〇〇四年六月に慶應義塾大学大学院社会学研究科に提出した博士論文「高齢化社会と人間生成―現代中年のライフストーリー調査にみるエイジング」を書籍化したものである。つまり本書は、博士論文として書かれた学術論文である。しかしながら、この〈生き方としての学問〉を実践していくために、従来型の学術論文の枠を超え出る、なかば実験的な試みを行なっている。

 その試みは、まずは本書の手法に込められている。本書では、研究知見をワンショットの「客観的事実」として提示するのではなく、研究知見を得るにいたった一連の調査研究過程を〈経験の実践のプロセス〉として赤裸々に開示し、それを「作品」化して提示するという手法をとっている。

 第四章から第六章にかけて描出される、調査協力者である現代中年と調査研究者である私とのダイアローグは、対話実践のなかでライフストーリーが生成されていくプロセス、相互了解が得られていくプロセス、さらには縦断的(longitudinal)な三年〜三年半ごしにわたる出会い(初回調査)と再会(再調査・再々調査)のなかで互いの解釈をすり合わせていくプロセスを分厚く記述している。

 そして第八章第二節と補論では、その舞台裏として、調査研究者たる「私」という主体がいかにして立ち上がってきたかへの内省(調査研究者である私自身の経験のカミングアウト・ストーリー)を再帰的(reflexive)に織り込み、そういった調査研究者の経験(調査研究に臨む動機)と調査協力者の経験(調査に応じる動機)との相互作用場面を開示しながら、解釈や知見の生成過程の深層を探っている。

 これらは、研究対象の経験と研究者自身の経験との出会いのプロセスをも含めた「〈経験の実践のプロセス〉としての調査過程」それじたいを、ひとつの社会過程として位置づけて当該研究のフィールドとし、「作品」に刻み込んでいく試みである。インタビュー(社会調査)じたいが人間生成のプロセスなのであり、そこに、調査協力者である現代中年の人びとと、調査研究者である私の再帰的な社会化のプロセスが発現しているわけである。

 また、これら調査研究過程の描写をめぐるさまざまな仕掛けは一種のパフォーマンスであるともいえ、読者の経験への働きかけということも意識している。

 第四章〜第六章や第八章第二節の記述では、調査協力者のライフストーリーはもちろん、調査研究者である私自身の働きかけ、発話や問いかけの意図・動機、そして私自身が調査協力者の語りから感じたこと、それらも最大限露わにする記述の仕方を行なっている。そのことによって、ききとった調査協力者のライフストーリーにばかりでなく、調査研究者・調査協力者のインタビュー場面での経験の仕方にまで読者の注意を喚起し、読者の追体験を促すという意図も込められている。そして、そこで喚起される調査研究者の経験、調査協力者の経験、読者の経験のらせんによる新たな了解の生成こそが、本書のメタ理論たる「生成的理論」の要諦である、という構図になっている。

 いわば、それは「劇場」なのであり、本書で上演される〈経験の実践のプロセス〉に、共感であれ、反感であれ、観客としての読者がみずからの生を重ね合わせ、自身の経験と対話することで、なんらかの意味の生成がなされんことを企図しているのである。したがって、理論的・方法論的議論に関心のない読者は、まず第三章の調査の経緯から第四章以降のインタビュー場面へと読み進んでいただいてもよい。

 これらの手法は、「作品」によって読者の経験を触発することも、社会過程の一部たる学問の実践的側面として社会生成の重要な回路である、という本書の主張に基づくものであり、それは、「作品」を通じた〈経験のミメーシス的ジェネラティビティ〉(本書の結論部である第八章で提示したタームで、経験の世代継承性のひとつのありようを概念化したもの)という実践にもつながっている。

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 本書に登場してくる調査協力者は、いわゆる「団塊の世代」前後の現代日本の中年世代の人びとである。この国では、団塊の世代がいっせいに定年を迎え始める「二〇〇七年問題」を目前に控えている。「進歩・成長」という「大きな物語」が鼓舞した右肩上がりの社会システムの行き詰まりと、そんな社会システムを支えてきた団塊の世代が「進歩・成長」という物語だけでは生きていけないライフステージ(高齢期)に入っていくなかで、何を信じ、どう生きていけばよいのか。個人時間の転換点(向老期への突入)と歴史時間の転換点(社会の高齢化)とが交差するなかで、人間形成の存在論的基盤(生の意味)が鋭く問われてくる生の状況がそこにある。

 そういった状況経験のなかで、本書に登場する調査協力者の人びとの「生き方」の模索のさまから喚起されるものは、とてつもなく大きい。そこには、「生き方」(あるいは「ものの見方」)をめぐる古くて新しい日本の生活文化が、社会の高齢化を背景に現代的文脈のなかで再帰的に再発見されていくさまを見出すことができるのである。

 また本書は、そんな現代中年と、三十代のゲイである研究者とが出会って生成される新たな「生き方」の地平を描いた作品でもある。それは、それぞれが異なった文脈で持っている「社会から外れた経験」を互いにぶつけ、重ね合わせていくなかで立ち上がってくる人間と社会の新たな地平といえばよいだろうか。そこに、現代中年だけではなく、他世代の「生き方」への生成可能性をも読み込むことができるのではないかと思う。

 三十代である私も含めて若い読者は、せまい意味では「中年」や「老い」の当事者ではないかもしれない。しかし「生き方」という次元では、すべてが地続きとなり、誰もが当事者になるのである。

 本書の底流にある〈生き方としての学問〉とは、世界と自分(あるいは認識論的次元と存在論的次元、学問形成と人間形成)とを切り離さない学知のあり方の探究である。さまざまな葛藤に直面しながらも、しなやかに生き抜いている現代中年の人びととの出会いのなかで、私自身、みずからの世界観がゆさぶられ、みずからの「生き方」を問い、みずからの「生き方」が触発され、そして変容していった。本書には、そんな私自身の〈生き方としての学問〉生成の痕跡も滲み出ているであろう。そしてそれも、まぎれもなく人間生成・社会生成のひとつの「現場」にほかならない。

 本書のささやかな試みが、一人ひとりの「生き方」の問い直しを社会の問い直しへとつなげ、つぎなる社会への展望を見出していく契機になれば、と願う。



 
著者プロフィール:著者プロフィール【著者】小倉康嗣(おぐら やすつぐ)

立教大学・東京情報大学・東京外国語大学講師。 1968年生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業後、厚生省厚生事務官を経て、慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員(PD)、早稲田大学・聖心女子大学講師を経て、現職。社会学博士(慶應義塾大学、2005年)。 主な著書に、『近代日本社会学者小伝――書誌的考察』勁草書房(共著、1998年)、L・シャッツマン=A・L・ストラウス『フィールド・リサーチ――現地調査の方法と調査者の戦略』慶應義塾大学出版会(共訳、1999年)、『定年のライフスタイル』コロナ社(共著、2001年)、K・F・パンチ『社会調査入門――量的調査と質的調査の活用』慶應義塾大学出版会(共訳、2005年)など。 主な論文に、「大衆長寿化社会における人間形成へのアプローチ ――『人生過程としてのエイジング』への一つの視角と方法」(『年報社会学論集』11号、1998年)、「後期近代としての高齢化社会と〈ラディカル・エイジング〉――人間形成の新たな位相へ」(『社会学評論』205号、2001年)、「ゲイの老後は悲惨か?――再帰的近代としての高齢化社会とゲイのエイジング」(『クィア・ジャパン』vol.5、2001年)、「再帰的近代としての高齢化社会と人間形成――〈意味感覚としての隠居〉をめぐる現代中年のライフストーリーから」(『質的心理学研究』2号、2003年)、「ゲイのエイジング――地道で壮大な生き方の実験」(『歴博』137号、2006年)など。

 

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