美学特殊C
「芸術」をひらく、「教育」をひらく
はじめに
序に代えて――セルフ・オルタナティヴ・ユニヴァーシティに向けて
I セルフ・エデュケーション――オタク的主体からの脱却 脱資本主義的セルフ・エデュケーションへ 学校へアーティストを 『美学特殊C』――大学的知の再「現場」化に向けて 新たなars eroticaの発明へ
II 「カフェ」をこえて カフェは〈脱資本主義〉的文化の温床たりうるか? もう一つのカフェの可能性――バザール・カフェ (小山田徹+熊倉敬聡の対談)
III 脱芸術、アートレス 川俣正『アートレス』の方へ <アートレス>と<脱芸術>をめぐって(川俣正+熊倉敬聡の対談)
IV コンテンポラリー・ダンスを批評する 私とコンテンポラリー・ダンス ダムタイプ、二つの『memorandum』――それは、我々に投げかけられた問いなのか? 泥と舞踏 舞踏をデジタル・アーカイヴ化する――その可能性と問題点
勅使川原三郎を体験する──KARASワークショップ 『ナルシスの変貌』──伊藤キム+輝く未来 純粋な「関係性」のダンス──岩下徹と山田せつ子のデュオ 勅使川原の新作『真空』──彼は"移動"を始めたのか? 「脱世界史的」東京の模像?──Nest『Syntax Error』 退行するパパ・タラフマラ──新作『船を見る』を観て 「脱世界史性」もまた一つの歴史?──バットシェバ・ダンスカンパニーの公演を観て思ったこと 教育にコンテンポラリー・ダンスを--ジャン=クロード・ギャロッタのワークショップ 「舞踏」は真に<マイナーなもの>へと転成できるか?--土方巽 '98前夜祭 「日常」の豊饒に向けて--マギー・マラン・カンパニー 内藤儀『メロドラマからパフォーマンスへ』 珍しいキノコ舞踊団の『フリル(ミニ)ワイルド』を観て考えたことなど
V 現代美術の周辺で 私と現代美術(の周辺)
『空即是色』プロジェクト──もしも東京がお花畑になったら 忘却への抵抗──『漂着重油交換展』 「愛」について--『FERTILE LAND』をめぐる断章 『京都DEEP』から『meta都民cafe』へ 宇宙における<他者>=人間の揺らぎ──『ビル・ヴィオラ』展 ロドチェンコからボナールへ、そしてそこに「ヨーロッパ」があった 『ひとつの不完全な歴史──日本の女性写真家たち(1864-1997)』展 これってアート?──ヴォッヘンクラウズール ゼロ地点の舞踊──ブブ・ド・ラ・マドレーヌ『LA DOLCE VITA(甘い生活)』展 瀧口の手、私の手──『瀧口修造の造形的実験』展 過視的超平面としてのニルヴァーナ──『森万里子 ピュアランド』展 孤立するゴダール--ゴダール『愛の世紀』 「そのもの」の降臨--内藤礼『地上にひとつの場所を』にたむける言葉 内藤礼と「芸術評論家」の対話ならざる対話 『出会い』展――さあ、旅するパラ・ミュージアムに出かけよう もう東京でイヴェントする/見るのはやめよう――東京再「地域」化計画に向けて 日本版地域通貨についての素朴な疑問 ファシリテートする難しさ――あるワークショップに参加して
VI 旅の途上で エクゾティスムについて 1999@ヨーロッパ 2001@キューバ 2003@北京・上海
おわりに――本書の題名についてと謝辞 初出一覧
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