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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第8号(2007年1月)
 

 

■ 目次 ■

 

「多様なアジア」における統一性とは?


 とは言え、「多様性」だけを強調しているだけでは、国際社会が「統一性」を欠く形となり、最悪の場合にはホッブスの有名な言葉、すなわち、「万人の万人に対する戦闘状態(bellum omnium contra omnes./The war of all against all.)」を招く危険性に陥ります。前述の会合で司会者であった私は、直後に始まる常陸宮殿下ご臨席のレセプションにおける諸規則を会合の最後に伝えてくれるよう事務局から依頼されていました。私は、「皆さん、コーエン教授は多様性が重要であることを私達に教えて下さいました。しかし、事務局は皆様がレセプション参加に関して、ルールを厳粛に守って下さるようお願いしています。この点について、柔軟な対応は一切許されないそうです」と、ジョークを混じえて事務的諸規則を伝えたのを今でも思い出します。確かにいくら多様性が重要であったとしても、特定の「ヴィジョン」や「ルール」が無ければ、物事は効率良く、また一定の方向に進展いたしません。このように、政治経済分野だけでなく、宗教的や歴史的な多様性を提示していること自体はアジアにとって強みとなりましょうが、同時にアジアは如何なる分野、如何なる理由で、また如何なる方法で、「統一性」を見出しかつ実現するのか、これらを考えることがアジアの課題であります。換言すれば、「目的(ヴィジョン)」と「手段(ルール)」を勘案しつつ、「多様性」と「同質性」との狭間で、また「統一性」と「非画一性」との狭間で、私達アジアの人々は、国、組織、そして個人の立場から或るバランスを見出すことを迫られていると言えましょう。そして、日本及び日本人は、国家、企業や組織、そして個人として、こうした多様な姿のアジアの中で「何」を「如何」に主張していくのか、これを良く知り、また深く考える必要があると私は考えます。これに関連して、「日本はアジアに対して先導的役割を果たす」という言葉を口にする方々がいらっしゃいます。しかしながら、その方々のうち何人が、その「目的」と「手段」を理解し、またアジアと日本、両者に横たわる「多様性」と「同質性」、また「統一性」と「非画一性」を判別出来ているのかと私は疑問に思っています。また、「これは日本人にしか分らない事物(或いは考えや感情)だ」と仰る方々がいらっしゃいます。これについても、その方々のうち何人が@日本と日本以外との世界との違いを知った上で、本当にそう思っているのか、それともA日本以外の世界を知らない「ので」、勝手に日本に独特なものだと考え、或いはB日本以外の世界を知らない「のに」、勝手に世界に通用する普遍的なものだと考えているのかが分らなくなります。

 Aのケース、すなわち、日本以外を知らないが故に、日本を特殊なものだと勘違いしている人の発言に遭遇した私の経験をご紹介したいと思います。約15年前、日米間で様々な摩擦や誤解があった時代の話ですが、ケンブリッジでの或る研究会に、或る日本人研究者がいらっしゃいました。そして日米間の違いとして、国家・個人の関係に関し、日本語の「国家」という文字が如何なる意味を持つかを英語でご説明なさいました(随分昔なので完全に正確な形ではありませんが、“The Japanese ideograms for state―Kokka, literally means state and family―express the idea of the unity of the state, the emperor, and the family.”といった表現でした)。確かに「日米間」の違いとして、この表現は正しいと言えましょう。しかし、慧眼な読者の方はもうお気付きだと思いますが、この違いは厳密には近代以降の「欧米と東洋との間」の違いです。すなわち、維新以降の日本語「国家」は中国語の「国家(グオジャ)」に由来しており、隣国の韓国では、「クッカ(國家/※※)ですから、表記も発音もほぼ同じな訳です。この方のお話を聞いて、目を白黒している欧米出身の東洋史専門家、更には唖然とした顔をしている中韓両国出身の研究者の方々のお姿を忘れることができません。日本から来たこのお方は哲学者のヘーゲルが『歴史哲学講義(Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte)』の中で中国に関して述べた有名な言葉をご存知ないのだと、私は溜息をつきながら下を向いていた次第です。そのヘーゲルの言葉とは、「(中国の)国家は家族的人間関係を唯一の支えとし、家族における信頼関係が客観的な形を採ったものが国家です。中国人は自分が家族の一員であることを忘れることなく、同時に国家の息子であることも自覚しています(Dieses Verhältnis num näher und der Vorstellung gemäßer ausgedrückt ist die Familie. Auf dieser sittlichen Verbindung allein beruht der chinesische Staat, und die objektivie Familienprietät ist es, welche ihn bezeichnet. Die Chinesen wissen sich als zu ihrer Familie gehörig und zugleich als Söhne des Staates.)」や「国家体制の基礎が考えられるとすれば、家族関係の基礎がそのまま国家体制の基礎でもあります(Diese Familiengrundlage ist auch die Grundlage der Verfassung, wenn man von einer solchen sprechen will.)」というものです。更に厳密に言えば、欧米でも日本同様に家族関係になぞらえた形で国家と個人の関係が在ったことも事実です。例えば、ラトガース大学のゴードン・ショシェット教授は、30年程前の1975年に、研究書(Patriarchalism in Political Thought: The Authoritarian Family and Political Speculation and Attitudes Especially in Seventeenth-Century England)を発表し、17世紀の英国は、日本(今は民主化が進展した日本よりも、むしろ北朝鮮)同様に、家父長制度的政治思想が支配的で、単に「汝の父母を尊敬せよ」として家臣や国民の忠誠心や服従を強いた史実を報告しています。こう考えますと、一見、日本に固有であるというように考える事物も、あまねく世界を見渡した上で考えてみなければ、大きな勘違いに陥る危険性が常にあると心得るべきでしょう。同様に、幕末・維新時の言葉「尊皇攘夷」も、中国の歴史に詳しい方は、すぐに日本に固有のものではないことはお分かりだと思います。

 次にBのケース、すなわち、日本以外を知らないにもかかわらず、日本だけで通用する常識を世界の常識として勘違いしているケースも往々にして見られます。これに関しては、前述の山本七平氏による名著『「空気」の研究』に示唆的な話が紹介されています。すなわち、「聖書学者の塚本虎二先生は、『日本人の親切』という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若いころ下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中に、あまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は、『君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ』と記されている。… (これは)全く善意に基づく親切なのである。よく、『善意が通らない』『善意が通らない社会は悪い』といった発言が…あるが、こういう善意が通ったら、それこそ命がいくつあっても足りない」と。私自身も、心から愛すべき善良な日本の方々が、「良かれ」と思ってした行為に対し、外国の方々が日本側の意図を理解できずに困惑気味に微笑み、或いは驚きつつ冷たい対応をしている場面―山本七平流に表現すれば、日本人の無邪気な「ヒヨコを死に至らしめる形の(ありがた迷惑な)親切心」―に少なからず遭遇しています。確かに、日本側と外国側、双方共に悪意は無いのですが、互いに価値観・習慣が異なり、その差を理解していないために、あたかも「宇宙人との対話」の状況に陥ってしまいます。

※はこのサイトでは表示されない文字です。PDFファイルには表示されています。

 

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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