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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2008年10月23日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第32回:朝吹英二とは…(その3)
 

目次一覧


前回 第31回
朝吹英二とは…(その2)

次回 第33回
朝吹英二とは…(その4

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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さて、福沢諭吉暗殺の決意を固めた朝吹英二は、しきりと暗殺の機会を窺う。ある日のこと、福沢は緒方洪庵を訪問する。そのお供には、いつものように朝吹。福沢と緒方との話は延々と長引いて、夜になってもなかなか帰らない。夕食(大層美味な蠣飯!)までご馳走になって、なお玄関で待ち受ける朝吹。福沢が重い腰を上げて、ようやく帰ることになったのが夜の十時か十一時頃。駕籠屋を呼んで帰路につく福沢。さあこれから後は、朝吹自身による後年の回顧談に語ってもらおう。

朝吹英二

…私は憎しみが一倍増して、どうでも今夜この戻り道で殺してしまわねばならぬと、この時いよいよ決心を固めました。しからばどこでどうして殺すのかまず充分に場合をうかがい、不意に飛附いて短刀でもつて只一刺しに刺し殺そうと、こう思う心を色にも出さず何食わぬ顔で、緒方先生方を駕籠に附いて立出でました。夜十一時ただもうしんしんたるばかりで確か雨上がりでしたでしょう。特にその晩はひっそりとした暗夜でした。軒の庇に風のあたるほか、何の物音も聞こえません。駕籠の棒先の細い提灯の火をたよりに本町橋の上にさしかかりました。サアここでやっつけなければもうやる場所がない。いよいよここぞと、刀の目釘を湿しイザとばかりに身構えをした。もしこの時飛びついたならば、先生も随分と力は強い、組んで転んでその結果はどうなるかわからぬけれども先生は不意のことですから、あるいは致命傷を受けられたかもしれません。嗚呼先生の御身は、風前の灯よりも危い。しかるに今私がきっと身構えをして、飛びかかろうとしたかの時早くこ時遅く、真に間髪を容れざる所へ、にわかにドド…と耳をさくばかりのはげしい物音がどこからともまたそれが何の音とももちろんわかりませんが、私は思わずハット躊躇したとたんの拍子に、握り締めた拳も緩みました。はずみというものは妙なものです、この太鼓の音でもってすっかり拍子抜けの体で心機一転…もチト大層ですが、確かに半転くらいはいたしました、右の物音は寄席のハネ太鼓であったと後にわかりました。その時もし殺していれば、私は切腹して相果てるか、召し捕られて斬罪に処せられたかでありましょう。事なきを得たのは何よりで、そのまま堂島に帰りました。先生の好運はいうまでもありませぬが、私もまた好運でした。

後になって朝吹がこの話を福沢に告げてお詫びをしたところ、福沢は熱心に朝吹を諭し、朝吹は自分の非を悟ることになった。慶應義塾の入社帳には、明治3年12月21日付で22歳の朝吹英二が入社したことが記されている。

上述の生々しい暗殺未遂事件の回顧談は、明治41(1908)年2月に大阪の三田会におけ る朝吹自身の演説によった(下記の参考文献に所収)。但し、いつものように適宜現代 語に改めたものを掲載した。朝吹自身の語り口を味わってみたい方は、ぜひとも原文 にあたっていただきたい。

 
中上川彦次郎
【写真1】 朝吹英二 (慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真2】 慶應義塾福沢研究センター 『慶應義塾入社帳 第一巻』慶應義塾 1986年 379頁
 
【参考文献】
大西理平『朝吹英二君伝』(伝記叢書331)大空社 2000年
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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