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オリジナル連載(2007年3月19日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第25回:慶應義塾出版局の活動(その7)
 

目次一覧


前回 第24回
慶應義塾出版局の活動(その6)

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慶應義塾出版局の活動(その8)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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慶應義塾出版局の活動は、その後も順調に続く。

明治6年6月には、『訓蒙窮理図解(きんもうきゅうりずかい)三版』を刊行。これは物理学の入門書で、初版は明治元年に刊行された。7月になると、『日本地図草子(にほんちずぞうし)』を刊行。これは、小学校における掛図用の日本略図(縦約1m、横約90?)である。いずれも、福沢が目指した「下民教育」「小民教育」のための出版が精力的に続けられている様子がうかがえる。

日本地図草紙

ここで、この時期に発信された2通の福沢書簡をご覧いただきたい。今回もまた、適宜現代風に改めてある。

まず1通目は、明治6年7月20日付の中上川彦次郎(なかみがわ ひこじろう)宛書簡(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 266頁)。

中上川彦次郎

〔前略〕出版局も随分盛んである。塾中の教員も段々とプラクチカルライフを目指し、将来は出版局へ入る人も出てくるだろう。海老名君、吉村君なども近頃は半信半疑で、出版局への気持ちも一つ、役人になる気持ちも一つ、スクールマーストルへの気持ちも一つ、あれこれと思いめぐらしているところである。私はきっぱりと商売人になることを勧め、まず練習のため出版局へ入るのがよいと説得している。今頃役人だの雇われ教師だのといっても、1年の所得は5〜600のメクサレ金を何に使うのか、商売の練習をして生活の見込みをいろいろと用意することに勝るものはない。〔中略〕また出版局も桜井、朝吹らは有力な人物で都合が良いが、とかく満足すべき人物が少なくひどく困っている。現在でも12、3万両の商売はいたし、随分インポータンスであるが、人材がないため拡大することができず、極めて嘆かわしい。〔後略〕

この書簡の宛名の中上川彦次郎は福沢の甥で、当時は宇和島の英学校で教壇に立っていた。後に英国留学を経て工部省・外務省に勤務したが、明治十四年の政変で下野。いくつかの民間会社の社長を歴任し、特に山陽鉄道株式会社を創立して社長に就任したり、三井銀行理事として三井財閥の改革にあたり経営の近代化を進め、傘下企業の育成に努めたりした。しかし彼の強硬な経営方法に対する反発から、次第に三井内部で孤立していくことになる。

文中の「海老名君」は、日向延岡藩の海老名晋(えびな すすむ)のことで、慶応3年8月に慶應義塾へ入り、横浜高島洋学校教員・岐阜師範学校長を歴任した。同じく「吉村君」は、但馬豊岡藩の吉村寅太郎(よしむら とらたろう)のことで、明治2年9月に慶應義塾へ入り、広島師範学校教員・文部省・第二高等学校長・第四高等学校長を歴任した。一方「桜井」は、福沢と同郷の豊前中津藩の桜井恒次郎(さくらい つねじろう)のことで、慶応2年3月に慶應義塾へ入り、当時は慶應義塾出版局に勤務。そして「朝吹」は、朝吹英二のことで、彼についてはまた回を改めて…。桜井・朝吹については、本連載の第18回「慶應義塾出版局の創設」でも顔を出しているので、ご参照のほど。

この書簡では福沢の実学・実業志向が明快に示されていて、「プラクチカルライフ」のための練習台としても慶應義塾出版局を位置付けていることがわかる。福沢にとって出版局の存在は、日本の近代化に向けた教育・啓蒙活動だけではなく、実学に基づいた実業の実践活動をする場でもあったわけである。それにしても役人や教員の年収5〜600円を「メクサレ金」(はしたがね)とは、大きく出たものである。さらに注目すべき点は、この書簡の中で当時の慶應義塾出版局の年商が12、3万両であると福沢自身によって語られていることである。すでに明治4年の新貨条例によって貨幣単位は「円」になったが、従来の慣行で「両」を使用している。それにしても、年商12、3万円! ちなみに明治9年の秩禄処分(ちつろくしょぶん)の金禄公債証書(きんろくこうさいしょうしょ)の交付額は、旧藩主1人平均が約6万円で、これにより安定した財産収入を確保して資産家となった。慶應義塾出版局の年商12、3万円は、その約2倍にあたる。これでは、年収5〜600円が「メクサレ金」になるわけである。しかしこのような福沢書簡に対して当時、宇和島の英学校で教員をしていた中上川の心中やいかに?

2通目の福沢書簡は、また次回のお楽しみに…。

【写真1】 『日本地図草紙』 (慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真2】 三井時代の中上川彦次郎(慶應義塾福沢研究センター蔵)
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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