1945年の「あの日」、広島と長崎が爆心地(グラウンド・ゼロ)に変わる「歴史的に決定的な瞬間(カイロス)」にたまたま居合わせた人びとは、突然、「被爆者」という十字架を背負わされ、その先の人生を歩んでいかなければならない未来に直面した。その十字架がどれほど大きく、重いものであったかは、第三者である私には、到底想像できるものではない。そのことを承知のうえで、それでも私は、「ただ原爆が落ちたというだけでは聖地にはなりません。原爆というものを二度と世界に使ってはならん。そういう運動の聖地にせんといかん」と言って、人間の尊厳を求めて立ち上がった被爆者一人ひとりがどのような思いを抱き、人類の歴史にとって、いかなる役割と意義をもっているかを引き受けて考えていきたい。
被爆地である広島と長崎から、もう一つの被曝地である福島へ想いを馳せるとき、建設から40年を超える福島第一原発の過酷事故(シビア・アクシデント)によって今なお、12万人を超える人びとが広域避難を余儀なくされている事実をどう受けとめるのかも考えなければならない。「振り返ったら、帰れなくなっていた」と言う被災地の人びとは、放射能という「見えもせず、においもなく、しかし一定量集まっていれば確実に人は死ぬ、そういう物質。これはもうただの恐怖なんですよね。あるのはただの恐怖」と語る。彼らもまた、被曝者である。
彼らが抱いた恐怖や「40年、50年かけて積み上げてきた」信頼の喪失は、3.11以降、「リスク・コミュニケーション」や「風評被害」と称して専門家が放射性物質の「安全性」を理解させようとしても、簡単に解けるようなものではない。
寺田寅彦は、随筆集『天災と国防』のなかで、自らの被災体験について「覚えていられない」という複雑な心情を次のように書き残している。あえて「忘れようとする」ことも含まれるが、「覚えていられない」ということは、単純に忘れてしまうこと、あるいは記憶が自然に消えていくことを意味するわけではない。その裏面には、何かを記憶すること、言い換えると、体験から何かを「学ぶ」過程がともなう。非日常性から日常性への回帰は、日常の秩序が生活を覆うことによって、見えにくくなるもの――何かを忘れ去ることと表裏一体だが、記憶への意志は、自らの体験から何かを「学ぶ」意志でもある。
「唯一の被爆国」としての日本は、原発とは本質的に日常化された軍事であり、「抑止力」という名の戦力の一つであったことを忘却していた。また、「3.11」と「8.6」「8.9」の結びつきが浮かび上がっていくなかで、「原発安全」神話が崩れたときに「経済成長」神話も崩れたことに気づくのである。実際、「唯一の被爆国」を標榜する日本政府は、「平和と(経済的)繁栄」という「戦後復興」物語を創出し、平和主義と経済成長を並存するものとして連想させてきた。戦後日本は、「東西冷戦」というイデオロギー対立のなかで、アメリカの「核の傘」に依存した「平和」とアメリカの「原子力(エネルギー)産業」に依存した「(経済的)繁栄」を同時に享受してきた。アメリカの日本研究者キャロル・グラックは、また、この「平和と(経済的)繁栄」というナショナルな神話が日本国民の「現状への満足の表現であった」ことを指摘している。つまり、戦後日本は「原爆の記憶」を忘却し、「原子力安全」神話を創出したのである。
評論家の加藤周一は、東海村JCO臨界事故が起こった1999年9月30日から20日後、『朝日新聞』の夕刊コラム「夕陽妄語」のなかで、「核戦争のおこる確率は小さいが、おこれば巨大な災害をもたらす。原子力発電所に大きな事故のおこる確率は小さいがゼロではなく、もしおこればその災害の規模は予測し難い」と論じている。「原子力安全」神話という虚構のなかで、事故など起きるはずがない――と、それまで放射線被曝の医療対策はまったくかえりみられずに、国内初の臨界事故が起きた。この被曝事故で亡くなった大内久(ひさし)の妻が一年余り後に「逝ってしまった人達に“今度”はありません」と綴ったように、国の法律にも、地域防災計画にも、「命の視点」が決定的に欠如していたのである。
加藤はまた、「一方で核兵器の体系に反対すれば、他方で原子力発電政策の見なおしを検討するのが当然ではなかろうか」と疑問を投げかけてもいる。そして、清少納言の「近うて遠きもの」の語順を逆転させた「遠くて近きもの」として、原爆と原発を挙げ、「東海村に事故がおこれば、『ヒロシマ』を思い出すのが当然だろう」と結んでいる。そして、いままさに、私は福島第一原発事故を目の当たりにし、加藤が言う意味において、福島から、ヒロシマ、ナガサキを想い起こすことの必然性を訴えたい。
[…中略…]
そもそも、核をめぐる問題と原子力をめぐる問題は同一のものである。「核の軍事利用」は、国家安全保障という名のもと、軍事機密として核開発に関する情報を統制した。そのことが、逆に、米ソ二超大国間の核軍拡競争に象徴されるように核の垂直拡散を促進することになった。その一方で、「原子力の平和利用」は、二国間原子力協定に基づく原子力技術と核燃料の供与という名のもと、原子力の水平拡散を促進させた。そして、核武装大国化するアメリカは、核の占有を試み、核拡散防止条約(正式名称、「核兵器の不拡散に関する条約」)によって、核の垂直拡散及び原子力の水平拡散に歯止めをかけようとした。核/原子力をめぐる問題は、軍事・エネルギー安全保障をめぐる外交政策といった国家レベルから国際政治といった国家間レベルに至るまで非常に多岐にわたる複雑な問題をはらんでいる。
そこには、広島と長崎の被爆者一人ひとりへのまなざしは存在しない。被爆者という「私」の次元をはるかに越えた、国際政治という「公」の次元における力の均衡(パワーバランス)が働いているのである。このような過去、現在、そして未来にまたがる諸問題を理解せずに、原爆の記憶を語ることはできない。
では、被爆者には何もできないのか。
被爆者は、なぜ、待てないか。
被爆者とは誰か。被爆者は何を待つのか。なぜ待てないのか。
そして、被爆国はなぜ、放射能汚染国となったのか。
本書は、その問いに真摯に向き合う。 |