もし本書が読者に新しいゲーテ像を提示することに多少なりとも成功したのなら、あるいは彼と彼の作品により興味を持ってもらえるようになったとしたら、これほど研究者として嬉しいことはない。だが、それはおそらく私が15年来、ゲーテが暮らしたヴァイマルを私のドイツにおける研究本拠地としてきたことにある、と思う。
最初に私がヴァイマルに足を踏み入れたのは1994年の初夏、ヴァイマル国際ゲーテ協会から3ヶ月間の研究奨学金を得たのがきっかけだった。
(中略)
さて、フランクフルトから当時列車で4時間ほどかけて――旧国境で線路が変わるため特急の速度が落ち、復興前の寂れた町並みが続く、心細い旅路だった――ヴァイマルに到着、ゲーテがかつて出仕した城(Stadtschloss)の3階にあるゲーテ協会事務局を訪ね、秘書のフォン・ツヴァイドルフさんが運転する旧東独製トラバントに乗せられ、カール・アウグスト公夫妻成婚の贈物に建てられた夏の離宮ベルヴェデーレ城の隣(庭師の館)に運ばれた。交通はとにかく不便だったけれど、歴史的な宿舎に住み、夕食後は他の研究者たちと広大なイギリス庭園を散歩し、(優美な見た目と違って)サイレンのように煩い孔雀たちと過ごしたあの夏の3ヶ月間は今も忘れられない思い出だ。
昔からヴァイマルとイェーナは、2つで1つの都市として機能してきた。ヴァイマルは言わずと知れた城下町で官吏を中心とした町、他方、イェーナは大学町で教授たちと大学生が――2009年現在も――主たる住民である。ゲーテに直接会うことはもはや叶わないにしても、旧東独のこの2都市には、彼の見た景色や建物の多くがゲーテのスケッチや当時の絵葉書と比べて、さほど変わらずに残っている。初めてヴァイマルを訪れた夏以来、ゲーテがかつて歩いた場所を自分の足で辿り(あるいは友人・知人の車で連れて行ってもらい)、彼が見た景色を自分の目で確認し、ゲーテが通った郷土料理店で食事をし(もっとも料理長は代替わりしているから、同じ味とはいかないが)、彼が監督した図書館で彼が借り出した本を読み、さらには厳密かつ最高の意味での原典(オリジナル)である彼の蔵書、手稿、書簡、スケッチまで扱うようになった。
さて2009年4月にイェーナに着いてみると、慣れ親しんだヴァイマルとはまた性格の異なるイェーナ大学(正式名称はフリードリヒ・シラー大学イェーナ、略称FSU)中央図書館(略称ThULB)の充実ぶりに驚喜して、数ヶ月、ひたすらゲーテ時代の書籍を読み漁る「本の虫」状態が続いた。いつしか柔らかな新緑の季節から緑濃い夏に移り、無尽蔵の宝の山を前に、すべてに目を通すのは無理と断念し、空気が透明な秋の色に変わったゲーテの誕生日辺りから筆を執った。すでに発表した論文を基礎にした部分もかなり修正を加えたが、イェーナで見つけた資料を使った新たな書き下ろしも多い。これら執筆作業の大部分は、ゲーテが監督官をつとめ、自然科学研究にも従事したイェーナ大学図書館で行った。夏から秋にかけて、鬱蒼と繁る緑が華やかな紅葉に変わっていく日々、楽しく集中して執筆できたのは、イェーナ大学人文系中央図書館の出入り口横にあるゲーテの凛々しい立ち姿(ハインリヒ・クリストフ・コルベ画、1826年。本書口絵参照)があったからかもしれない。噴火するヴェズビオ火山を背に、植物や鉱物に囲まれて、ペンとメモを持ち、トレードマークの大きな澄んだ瞳で彼方を見つめている、ほぼ等身大のゲーテの肖像画を横目に眺めながら、「さて、どんな風に貴方を日本の読者に紹介しましょうか」と問いかけた。私の研究控え帳には、まだまだたくさんゲーテについて紹介できなかったことが書き留められている――またゲーテと鉱物学・化学・動物学についても既刊論文等があるが、本書ではこれらの領域には触れなかった――が、機会があれば、ふたたびお目にかかれると信じたい。あまり冗長になってゲーテが嫌われてしまうと大変なので、とりあえず本書で一度ピリオド、もしくは大きめのコンマを打たせていただく。
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