本書は、筆者がライフワークとして渾身の力を込めて書いたツェラン研究三部作の完結編です。
博士論文として提出した論文がもとになっているため、一見して堅い内容の専門書という印象を受け、敬遠する人がいるかもしれません。
しかし、前二作以上に個々の詩を、それらの喚起するイメージを大事にしながら丁寧に読み解いたので――そしてこれこそがツェランの詩を読む歓びなのです!――、詩を愛する読者にとっては満足していただける結果になったのではないか、とひそかに自負しているのです。「フランクフルト、九月」などのように、最新の研究成果を採り入れて、解釈を大幅に訂正した箇所もあります。前著を読んで下さった方も「またか!」と思わずに、ぜひ手にとって比較してみてください。もちろん、初めてツェランを読む人にも、本書だけで十分に理解していただけるように工夫したつもりです。
ツェランの詩、特に後期の詩を深く探求すればするほど、不思議なことにツェランという個人を越えて、長い歴史をもつ、豊饒なドイツ・ユダヤ文学の世界に入って行くことになりました。ハイネやカフカ、フロイト、ベンヤミンを初め、多くのユダヤ人作家・思想家の引用が刻印されているからです。その典拠を探し出すために、ドイツに保管されているツェランの蔵書を徹底的に調査しましたので、結局完成まで15年という長い歳月を要することになりました。
これらの引用は、詩人の知的好奇心から用いられたペダンティックなものではけっしてありません。それらはひりひりする痛みを伴う「傷」であります。かろうじて詩に残された「痕跡」からこの傷をたどり、追体験することは容易ではありませんが、この「傷」を潜り抜けていくことによって初めて(それを飛び越えることではなく)、読者は豊かな詩的イメージに溢れた新しい世界に入っていくことができるのです。
一例を挙げますと、「薔薇」はツェランにとって花であるだけではなく「傷」でもあります。
「凝固せよ(コアグラ)」という短い詩の冒頭は「お前の傷も、ローザよ(Auch deine Wunde, Rosa.)」となっていますが、ここには二重の仕掛けが隠されています(「ローザ」は薔薇色とも、薔薇の花とも、また人名とも理解できます)。ひとつはカフカの短編「田舎医者」からの引用です。医者である「私」は激しく雪の降るなか、10マイル離れた村で瀕死の重傷に苦しむ少年のもとに馬車を走らせ、その傷を見つけます。真っ赤な薔薇(ローザ)色の傷を。イコノロジーにおいても、薔薇は十字架に架けられたキリストの傷をも意味します。もうひとつは、ポーランド生まれのユダヤ人革命家ローザ・ルクセンブルクが獄中から書いた手紙であり、そこでローザは、野蛮な兵士によって打ちすえられ、ぼろきれのようになって傷口から血を流す牛を詳細に描写しつつ、その牛に自分を重ね合わせて涙を流します。「お前の傷も、ローザよ」という短い詩句の中に、実はこの二つのイメージが重ね合わされているのです。これはツェランが友人ペートレ・ソロモンの書簡の中で告白している事実です。
このようにツェランの詩の一語一語の中に、想像を絶するほど重層的で、また重い意味が隠されているのですが、それらはユダヤ人が体験した長い流浪と迫害の歴史とその苦しみから生まれているのです。したがって、大げさに言うなら、本書は、ユダヤ人の歴史に対するオマージュ的な要素が少なからず込められているのです。ツェランを論じつつ、その背景にあるJudentum(ユダヤ性、ユダヤ精神)とはなにかを絶えず自問しつつ本書を書き進めました。ベンヤミンやアドルノ、ブーバーやショーレムといったユダヤ思想に関心のある読者にもぜひ読んでもらいたいと思っています。
本書はツェラン研究者だけに向けて書かれた狭い意味での研究書はありません。ユダヤ文化史に関心のある方、いや詩を愛する人すべてに向けて放たれた「投壜通信」なのです。心ある方が偶然、浜辺で、いや書店の片隅で本書を見つけ、ひもといてくれることを、そしてツェランという痛々しくも、真実の言葉の叫びに耳を傾けてくれることを願ってやみません。
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