今や、「障害受容」ということは、乳幼児や学童児においては当然のことと受けとめられ、誰しもほとんど何の疑問も抱かずに、障害をもつ子どもたちと関わっているように思われます。
六〜七カ月健診や一歳半健診で発達の揺らぎが心配され、早期の母子療育を勧められると、ほとんどの方が何の抵抗もなく参加されます。お母さん方も互いに仲良くなって、どの子も良い発達を遂げるよう、助け合います。小学校でも「みんなちがって、みんなよい」という教育理念のもとに、障害のある子どもも皆と一緒に学校生活ができるようにと、いろいろな配慮がなされています。少人数の支援学級も親の希望ですぐに作られるようになりました。
六十年前は、障害をもった子どもは学校への入学が許可されないことが多く、入学できてもさまざまな厳しい目にさらされて、親は悲しい思いをしなくてはなりませんでした。この六十年でずいぶん変わりました。同じ国だったかと思うほどです。
そして、子どもたちが年長になってくると、周りの対応もそれまでのようなすべて受容といったものではなく、年齢相応の社会性が求められるようになります。障害をもつ子どもがそれに戸惑いをもたず、どうにか適応行動がとれるようにと、いろいろな援助や、支援の教育も続けられます。先生方も子どもとの信頼的関係を大切にしながら、この社会で自立的に生活できるための技能を身につけさせようと努力しておられます。そのような教育環境の中で障害をもつ子どもたちも成長し、驚くほど伸びてきます。
ところが、子どもたちが十八歳になって就労ということになると、すんなりと受容してもらえないのが現実です。障害をもつ子どもたちは真面目に課題に取り組み、熱心に働き、周りの方々とも誠実に関わろうとしますが、仕事の効率性・生産性ということではどうしても追いつけません。多くの人が就労できないか、せいぜい非正規雇用にとどまっています。
確かに、障害受容はすすんできていますが、いまだ中途半端といえましょう。本当の障害受容がすすんでいくには、人の価値がその労働の効率性・生産性によってのみ決まるのではなく、その人がどのように生きようと努力しているのかを見なくてはいけないという、発想の転換が必要だと考えます。最近の「働き方改革」の論議の根本には、どうやれば短い時間で効率よく生産性を上げられるか、という意図があるように思われてなりません。
障害をもつ人でも、小さな工場や作業現場で毎日働いている方もいます。同じ職場の先輩は、はじめは仕事がとろいので少し違和感があったが、彼らの真面目さ、いつも嬉しそうに仕事を続ける態度、損得を考えないで仕事に熱中する姿を見ているうちにだんだんと仲間意識がつのってきた、と皆語ります。働くとはこういうことかと考えさせられた、と述べる方もいました。「働き方改革」のみでなく、「働きがい改革」が大切と思います。それこそが、障害受容がすすみ、日本の社会がより成熟したものになる起点となるからです。
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