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オリジナル連載 (2006年10月5日掲載)

時事新報史

第8回:政党機関紙の盛衰と福地桜痴 
 

























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 『時事』が創刊された頃、御用新聞・官権新聞と後ろ指を指されつつも世間で最も信頼されていたのは、『東京日日新聞』(『東日』)であったことについては、すでに何回か言及した。社主の桜痴福地源一郎(おうち・ふくち・げんいちろう)の筆になる社説は名文の誉れ高く、「吾曹」(ごそう:「われわれ」の意)と自称したことから、福地は「吾曹先生」と呼ばれ、その現実的な漸進論は信望を集めた。また御用新聞と呼ばれるだけあって太政官の情報を正確に伝える媒体としての信頼度も高かったのである。

 しかし福地の人気は落ち始めていた。というのは、前年(明治14年)の北海道開拓使官有地払下事件で、一旦政府批判に転じた福地は、14年政変を経て再び伊藤博文らと手を結び、その変節ぶりが、読者の不興を買ったのである。これを加速させる事態が、以後立て続けに彼を襲う。

 福地は明治15年3月、同じく漸進論の立場を取る『明治日報』の丸山作楽、『東洋新報』の水野寅次郎と立憲帝政党を組織し、自由民権運動の中で盛り上がる国会論・憲法論では主権在君を唱えて、民権新聞と鋭く対峙(たいじ)した。

 一方の、民権新聞。自由党は『自由新聞』を創刊、また改進党は『郵便報知新聞』『東京横浜毎日新聞』を擁し、主権在民や、立憲君主政体などを唱えた。この激しい論争を世に「主権論争」と呼ぶ。

 不幸なことに、吾曹先生は主権論の知識に乏しく、最新のドイツ学説を学ぼうにも、ドイツ語が出来なかった。民権新聞からは激しい反論を浴び、代わって助手の学生が反撃するありようとなった。さらに『東日』は、板垣退助が演説の中で明治天皇を「日本の代表○○君」と呼んだという誤報を掲載、謝罪と訂正広告掲載を求められ(15年5月)、読者離れが一層加速した。

 不運は続く。政府は、『東日』の官報化を願う福地を見捨てる形で、独自の官報発行準備を開始し(発行開始は16年7月)、『東日』の官報的性格も全く無に帰してしまう。とどめを刺すように、政府は政党に与(くみ)しない超然主義を取って、政府支持を主張する帝政党を解散させる(16年9月)。こうして、『東日』は福地の名声も、官報的な信頼も失って、ようやく命脈を保つだけの存在となってしまうのである。

 対する民権新聞も、内紛とつぶし合いに突入する。まず自由党に、有名な板垣外遊問題が勃発(15年秋)。党内が分裂し改進党による激しい批判にさらされる。自由党側からは、改進党と関係が深い三菱の海運業独占を猛批判(15年冬)。「偽党撲滅」のスローガンを掲げて、三菱・改進党の関係を暴露した。こうした内紛とつぶし合いは読者を白けさせただけでなく、自由改進両党を弱体化させ、これにつけこむ政府は政党弾圧を強化して、両党は空中分解を遂げる。政党機関紙たる各新聞も廃絶や部数激減に至るのである。

 ここに、ひとり部数を拡大し、急速に読者数を拡大していくのが、政党に与せず「独立不羈」を掲げていた『時事』である。『時事』は主権論争の全面対立に冷ややかな視線を送りながら、自らの主張が官権に与するものと誤解されぬよう、『東日』の論調と福地らが結成した帝政党を激しく批判している。また、政党間の泥仕合にはほとんど加わっていない。『時事』はこうして、やや漁夫の利的ながら、地位を着実に固めていくのである。

 ところで、対極に位置するかの如き『時事』と『東日』であるが、福沢と福地には浅からぬ因縁がある。2人は「天下の双福」と並び称され、しかも古くからの知友であった。年齢は福沢が5才以上年上だが、彼らは同じ安政5(1858)年末に江戸に出府、福地によれば安政6年春に出会ったという。2人は共に森山多吉郎(もりやま・たきちろう)とジョン万次郎から英語を学んでいる。文久元(1861)年の渡欧使節に通詞(つうじ)として随行し、ヨーロッパ諸国を歴訪した経験を共有する。

 しかし、それはまた、すれ違いの数々に彩られている。清廉潔白を通した福福地源一郎と福澤諭吉沢に対して、福地は色を好み、深い仲となった桜路(さくらじ)という妓にちなんで号を桜痴とした。共に英語の教えを乞うた森山は、同郷(長崎)の福地を愛して長く面倒を見たが、福沢はほとんど相手にしてもらえず、ほぼ独学で英語を身につける。福沢は元治元年の渡欧の前年に咸臨丸での渡米の機会を得て多くを学んだが、福地は選に漏れて涙をのんだ。幕府から心が離れ、学問と教育に道を見出していく福沢に対して、福地は開国・佐幕の立場を維新直前まで貫き、新聞での発言を理由に逮捕される。維新後、福沢は慶応義塾での人材養成に使命を燃やすが、福沢の忠告もあって学塾「日新舎」(にっしんしゃ)を興した福地は、間もなく吉原通いに惚(ほう)けてすぐに塾を手放してしまう。幕府に身を置いた以上新政府には出仕できないとする福沢に対して、福地は明治3年に大蔵省に出仕する。明治11年12月、東京府会の最初の選挙が行われたときにはそろって選出されたが、福地が議長、福沢が副議長に指名されると、もとより名前だけを貸していたつもりの福沢は府会議員自体を辞職してしまう。

 このように2人は多くの接点を結び、そしてすれ違った。最初の出会いから20数年、2人は新聞という世界で、またしても接点を結んだのである。かたやうなぎ登りに名声を高める『時事』。かたや落ち目の『東日』。

 福地はやがて追われるように『東日』社主の地位を去り(21年7月退社)、その後は歌舞伎脚本の執筆で地位を築く。ちょうどこの頃福沢も演劇改良に興味を示し、歌舞伎脚本を書いてみたりしているが程なく熱が冷めたかと見える。

 福地は、明治34年に福沢が没したときに、次のような追悼文を送っている。

「明治七年余が東京日々新聞を主宰するに当たり、君は余に告げて曰く、足下が新聞事業に従う、はなはだよし、ただただ慎みて政府と提挈(ていけい)することなかれ。提挈せば必ず足下を誤らんと。果たしてしかり、余は君の忠告を挌遵(かくじゅん)せざりしがために我を誤りたりき。噫々(ああ)君は余が益友なり信友なり、君かつて余に背かず、余実に君に背けり。」

 我を誤ったと振り返る福地の晩年は、不遇の日々であったといわれる。その後、再び政治の世界を志し衆議院選挙に出たときなどは、不憫に思う江戸っ子の義侠心で当選したという。福地の死は、福沢から遅れること5年、明治39年1月のことである。そして、2人の評価は、今日においてくっきりとその明暗を分けてしまった。



資料
・福地桜痴「旧友福沢諭吉君を哭す」『慶応義塾学報臨時増刊・福沢先生哀悼録』(明治34年)。
・柳田泉『福地桜痴』(吉川弘文館、昭和40年)。

画像

福地源一郎、 22歳 ( 柳田泉『福地桜痴』、71頁)。
福沢諭吉、27歳 (慶應義塾福沢研究センター蔵)。
福地源一郎、63歳 (柳田泉『福地桜痴』、279頁)。

 

 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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