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オリジナル連載 (2011年11月8日掲載)

時事新報史

<第25回>

試練のとき(3) 〜異端児の余香

 
 

























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渡辺が明治20年に『鉄血政略』を出版した書店、金港堂の主人原亮三郎とともに東京の『今日新聞』を買収するのは、ちょうど前回詳述した雑誌発行や伊藤面詰の騒動が起こった頃のことであった(註1)。同紙は赤字経営により休刊しており、買収後の11月に『みやこ新聞』(まもなく都新聞)と改題して再出発を図る。ある新聞の記者が、他の新聞を経営しているというのは、当時の社会ではさして驚くことではないが、独立不羈の言論を標榜する『時事』にとっては、驚天動地の行動であった。もしその新聞に政党色があれば、あるいは某有力政治家との密接な関係が噂されたら、あるいは低俗な内容であったら、それは『時事』の声価にも直結してしまうのである。のみならず、渡辺は来るべき国会開設時には衆議院議員となることを希望し、政治的な活動の機会もうかがっていた。福沢が許すはずがない(註2)

 

それが、渡辺にとって突然訪れたのか、来るべくしてのことだったのかはわからないが、福沢は明治22年1月22日、渡辺に対し、事実上の解雇を申し伝える。その翌日、やはり中上川に報告した書簡は次のように記す。

 

 渡辺治氏こと、近来次第に政治に熱し、方々奔走して新聞紙のことも手に付かぬと申す有様にて、第一は社の用を欠き、第二は政治社外独立の時事新報にてその社員が政治の何々党と与するなど、評判せられても面白からず。かたがたもって、今度改めて、毎日社に出勤することを断り、社説でも出来て、紙上にのぼすべきものあらば採用すべし。兎に角に本社にては渡辺を当てにせずと申し渡し候。

 

こうして『時事』を事実上去ることとなった渡辺は、しばらく地方漫遊に出掛け、今後の活動の礎を作ろうとしたらしい。その一環で大阪を訪問した際、かつて『時事』の会計を担当し、それを渡辺に引き継いで藤田組に転じた本山彦一と再会する。本山は『大阪毎日新聞』(大毎、現在の『毎日新聞』)の主筆が不在となっていることを渡辺に告げ、その後任につかないかと誘った。東京と並び立つ大阪の新聞、そして実質において一城の主ともいうべき主筆であれば、願ってもない地位であり、これを当時の渡辺が承諾したのは当然であった。渡辺は早々に大阪行きの準備を整えたとみえる。

 

明治22年5月10日、交詢社の食堂において、渡辺治の送別会が催された。その席で渡辺が行った演説の記録が残っている。その主要なところを引用してみよう。

 

 先生をはじめ、諸君も御承知のごとく、私は去る明治十五年時事新報創立ののちまもなく入社致しまして、今年まで出入り八年の間時事新報社の業務に従事し、ただ単に新聞記者たるの資格をもって筆硯をもてあそびたるに止まらず、あるときは庶務会計に当たり、またあるときは印刷の事業をも引き受け、およそ時事新報が私に与え得たるだけの新聞事業のあらゆる便利はこの八カ年の間に私の一身につき添いました。これは私に取りまして無形の財宝すなわち一種の価値、他人の容易に買うべからざる教育にして、私の大阪の招きを受けましたのも、全くこの八年間に得たる教育の恩恵なりと思います。

 サテまた既往八年の間に起こりたる一身の境遇を考うるに…地方に踏み出し一事一業の責任に当たり、例えば公然一身の名を署して新聞事業の衝に立ちたることもなく、いわば時事新報と申す一つの鉄壁を構えてその内に籠城したる次第なれば、鉄壁内の安全サは一身百事の衝に当たることなく、ただただ先輩諸君の後ろに尾して歳月を積みたるのみ。申さば、箱入り息子というがごとき境遇なりしがゆえに、絶えて浮世の風に吹かれたることもなく、また政海の波に揺れたることもあらざりしに、今や突然この鉄壁の外に出で、大阪毎日新聞を引き受け、風にもあたり、また波にも揺られて新聞の事業に従事するは、前後相較べて冷より熱に入り、暗より明に遷るその間、一身境遇の変化は実に極端の話にして、この先々も従来に較べなば、変化の趣がまたさらに多かるべきは今より予想するところであります。

 三年立てば三つになるというたとえのごとく、今日にては不肖ながら新聞記者の末席に名を列するに至りしその由来を申せば、福沢先生のお引き立てにて立身の緒を得たる外はありません。さてこれからはいずれの方向に一身を向けんとするかというに、私が一身をなげうって商売人となり、実業者となり、商工の業に従事し、陶朱猗頓(とうしゅいとん)の富を成そうという考えは出来まいかと存じます。

 ・・・今より商工業に身をゆだねんなどとはむしろ思いも寄らぬところにして、すなわち学者となり、新聞記者となり、あるいは時として身を政治社会に入れて諸先輩の後につき、国のため社会のため、大いにその利害を論究するの場合もありましょう。…純然たる学者も私の職分でないとして、今後は新聞記者なり、もしくは国会議員の資格にて身を処し、世に立つ決心で郷里にその本城を構え、身に寸鉄は帯びぬながらも多事多難の政戦場裏に切ッて出る覚悟なれど、さて東京にのみ籠城し、ことに時事新報社という鉄壁の内に割拠して丸(たま)にもあたらず矢にもあたらぬ始末にては、すわ戦場に臨んで胆力の座らぬ弱卒、失敗の理必然なれば、今より一年の間を期し、地方漫遊を思い立ち、各地の人士に交際し、各地の事情を視察して我が見聞知識を弘めんこそ必要なれと決心したれど、かくては充分新聞記者たる責任を尽くすことも能わざるより、しばらく操觚者〔そうこしゃ―記者の意〕の地位を去らんとのことは今年の初め、福沢先生と協議の上にて取りきめ、以来は日々の出席をも少なくし、従って執筆の責めを尽くさず、次第に身を閑散に処するの工夫を付けたるは諸君もご承知のことであります。(『警世私言』)

 

福沢に対して、一定の配慮をしつつも、要するに福沢の下にいるのでは飽き足らない、ということである。福沢は社会における政治の役割の重要性は誰よりも理解しつつも、政界ないしは官界の働きが社会の最重要な要素と思われ、民間の事業が蔑視される風潮を何より憂えた。むしろ民こそが国を支え、文明を担うものであることを、声高に主張し続けたのはそのためであり、それが『時事』の実業奨励論などに表れるわけだが、その結果『時事』や福沢に向けられた揶揄(やゆ)が「拝金宗」なる語であったことは既に述べた(第18回参照)。引用部分以外でも、渡辺の演説は、実業などは男の仕事にあらずといわんばかりで、福沢や、たまたま上京中でこの宴に参じた中上川の使命感を逆なでして余りあるものである。

 

順序としては逆であるが、この宴が催された日、『時事』に一つの雑報記事が載った。以下がそれである。

 

時事新報社に政党員なし 時事新報は常によく政治を談じ、世務を語るといえども、その目的とするところは天下に広く居家処世の道を安くし、最多数の人をして最大の幸福利益を得さしめんとするにあるものなれば、その政談においてもあるいは官に偏し、またあるいは政党のいずれに厚うしていずれに薄うするがごときはあえて自から禁ずるところにして、これがために社中に人多しといえどもその人はいかなる政党にも入らずして政社外に悠々たる学者の一類なり。既に社員中の一名、渡辺治氏がかつて政治に志を起こしてなすことあらんとするに当たり、その志は素より男子の志にして傍より非難すべからざるは勿論、かえって大いにその挙を賛成したりといえども、さればとて今日実際の政に志して早晩その身を政治社会の中に置かんとするには、新たに政党を組織するか、または既成の政党に加入せざるを得ず。かくのごときはすなわち時事新報の旨にあらざるがゆえに、本年春の頃熟談の上本社を去り、また今回は大阪の毎日新聞社に入ることとなれり。既に社を去るときは社員にあらざるは固よりいうまでもなく、概して他の新聞社に事を執る以上は、私の友誼こそ旧時に異ならざれども、新聞紙上の主義論説においては固より同一なるを得べからず。政論なり商論なり互いに毫も関係なくして、おのおの独行の道を行くべきのみ。世間往々事の公私を混雑し、人物の由来を尋ねて論説の旨を臆断する者なきにあらざれば、念のためここに一言するものなり。(『時事』明治22年5月10日付)

 

渡辺が今後大阪で何を書こうが、『時事』とは一切無関係という明白な宣言である。おそらく福沢の筆であろう。こうして高橋に次ぎ、渡辺も『時事』から姿を消し、『時事』草創期の社説記者は福沢を残していなくなってしまったのであった。しかも、渡辺の退き方は、福沢に大いに後味の悪さを残した(註3)

 

『大毎』での渡辺は、社長兼主筆として一人で経営の立て直しを図り、社説も雑報も小説も自分で書くという離れ業をやってのけたという。その筆力で読者の目を奪い、たちまち弱小紙を大阪の代表紙の一つへと押し上げていった。

 

 

画像1
渡辺治の筆蹟(慶応義塾福沢研究センター所蔵)

 

 

渡辺の野心はとどまらない。彼は念願通り、明治23(1890)年7月に実施された第一回衆議院議員選挙で当選を果たす。ところが、彼は本来、被選挙権の要件である満30才を満たさなかった。そこで、元治元(1864)年生まれでありながら、戸籍吏を買収して戸籍を改ざんしたと言われている。実際、衆議院事務局が刊行した『衆議院議員略歴』を見ると、彼の生年は安政3(1856)年生まれとなっている。野心のなせるわざというべきだろう。

 

しかし皮肉なことに、大毎社長となろうが、代議士になろうが、彼に付いて回ったのは、福沢門下というレッテルであった。国会開設前後に大流行した、議員たちを風刺する列伝風の本の中から、例えば一山百文『議員の風味国会料理』(明治23年)の渡辺評を紹介しよう。

 

・・・そろばんに抜け目なき大阪毎日新聞の主筆と承れば、国の政治に見一無当〔けんいちむとう―そろばんの計算のこと〕早急の進歩主義を取るべしとも思われず、さりとて保守的の天保銭と一貫(さし)になるべくも思われず。類で集まる拝金宗の大黒衆と団結して、ずだ袋の議論をつかみ出ださる心算なるべきか。シテまた袋の中より現るる議論は何々ぞ。本来君は権利張るよりは勘定張る前掛け通。・・・

 

「そろばんに抜け目なき」「類で集まる拝金宗」「勘定張る前掛け通」――いずれも、実業と称して商売熱心な福沢門下として揶揄しているわけだ。井原智仙『国会相撲輿論の腰投』(明治24年)という本では、「根が三田派の羅漢ゆえ、ホラを福沢氏の亜流をくむも無理ならねど…」と、より露骨だ。このように、世間の渡辺を見る目は、どこまでも「福沢門下生・渡辺治」であった。それを嫌って渡辺は福沢から遠ざかったのだが、しかし世間はそんな意図をくまなかった。幕末以来の荒波にもまれた福沢の方がよほどうわてで、こんな世間の見方は百も承知だった。だからこそ渡辺の自制を求め、独立不羈の『時事』との関係にあれだけこだわったのだ。

 

衆議院議員となった直後の明治23年11月、渡辺は東京の『朝野新聞』を買収、自ら主筆となった。すなわち東西の新聞を手中に収めたわけである。買い受けたその日、社屋を引き渡されたのは深夜、旧社員はほとんど残っていない社内で一人猛然と筆を走らせ、翌朝には平常のごとく発行したという逸話が残っている。本連載も見習いたいものである。

 

この多才で血気の風雲児は、明治24年5月に喀血。長く社内で横たわったまま執務したとも伝えられるほど『大毎』に情熱を注いだが、明治26年10月15日、療養先の須磨の自邸で結核により死去する。30年の生涯であった。

 

画像2
『時事』に掲載された渡辺治の死亡広告(明治26年10月18日付紙面)。

 

 

水戸での幼少時からの盟友高橋義雄は渡辺の死に際して『大毎』に寄稿し、こう評す。

 

君、武人の家に生まれたれども、よく時勢を詳らかにして、志、文勲に立つるにあり。そのほぼ古今に通じ、事態を弁じ、敢為の気性、鬱勃たるに至りては、これを水戸人士中に求むるに、けだし東湖以来一人のみ。

 

当時渡辺を藤田東湖と比肩する評論はほかにも見受けられる。以後、台水渡辺治の名は、知る人ぞ知る疾風の才人として、郷里水戸では一世を風靡した懐かしき人として長く語り伝えられることとなった。

 

『大毎』社長として彼の経営を引き継いだのは、これまた『時事』OBの高木喜一郎であり、そして筆をもって治の言論を継ぐのが、緑岡渡辺巳之次郎(みのじろう)、治の養子である。さらに『大毎』の中興の祖として、明治から昭和初期までの長きにわたって社長として君臨したのは、渡辺を大阪に呼んだ『時事』OBの本山彦一であった。

 

 

渡辺治は、『時事』が望まずして生み出した日本新聞史上の強烈な異端児であったといえよう。

 

 

註1

前回長文引用した明治21年10月22日付中上川宛福沢書簡には、近日渡辺らから「絵入時事新報」の発行を計画する声があり、福沢が不可を申し渡したことが記されていた。この「絵入時事新報」計画は、渡辺による『今日新聞』買収と関係があるかもしれない。

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註2

 渡辺が『都新聞』の経営にどれほど参加したかは定かでないが、黒岩涙香を見出して、『都新聞』に小説を書かせたのが、作家、涙香のデビュー作となった。

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註3

渡辺が早くから速記者を用いていたことは前回記したが、渡辺は『大毎』で社説を執筆する際口述筆記を用いた。神戸にいた中上川はこれを聞きつけたらしく、『時事』の社説執筆に速記者を用いることを福沢に提案するが、福沢は社説執筆には向かないと、採用しなかった。このことを記す福沢書簡では、『大毎』に行った渡辺に対する福沢の強烈な本音が垣間見えるのでここに引用しておきたい。

 渡辺が速記者を用いて筆記云々は、横文翻訳などにはあるいは役に立ち候こともこれあり、既に同人が時事新報にいるときも、一人を雇い入れて試み候義これあり候えども、さまで結構にもこれなく、ただの論説を認めるなどに至りては、渡辺の口授筆記、ものの役に立ち申さず。時事新報の論説を認めるに往々右様のことを致し、その文はまるで老生が書き替え候次第、はなはだ癪に障りたり。渡辺が謹んで書いてもろくな文章も出来ざるに、速記者を用いるなど法外千万のことなり。…大阪毎日新聞を読む者が馬鹿なれば宜しく候えども、渡辺の主筆、永続きは致すまじく、同人のごとく事を容易に心得ては、遂には人に厭わるるに至るべし。右の次第にて、老生が速記者を用いるなど、とても叶わざることと存じ候。(明治22年6月21日付、中上川宛)

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著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福澤研究センター准教授。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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