Web Only
ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載 (2006年12月28日掲載)

時事新報史

第11回:初代社長・中上川彦次郎  明治15年3月〜明治20年4月 
 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 
 

 『時事』の初代社長は中上川彦次郎である、と記す本が多い。確かに、創刊時の「社主」は中上川だった。しかし明治16年4月に新聞紙条例が改正されて社主にも法的責任が及ぶようになると名目だけの社主(持主)と交代して表面上退いている。「社長」というのは社内の実質的役割を指した呼び方のようで、公式の役職として置かれていたわけではないようなのである。実は「編集長」とか「主筆」という役職についても明確ではない。

 そのような曖昧(あいまい)な状態の原因は、名ばかりの役職と実質的な役職とが使い分けられていたややこしさに加えて、福沢と『時事』の関係が曖昧だったことによる。福沢は社長兼主筆といってもよい立場にあったが、法律上は一社員に過ぎなかった。法的責任を負う名目上の「社主」(持主)がいて、実質的に社務を統括する「社長」の中上川がいて、さらに最終的な統括者(のちに「総裁」という呼称が生じた)である福沢がいるという、入れ子のような状態が出来上がっていた。さらに、そもそも形式張った組織や役職を極度に嫌う慶応義塾の風潮も影響していたと思われる。しかし、福沢による個人経営で社員も数十名に過ぎない当時は、これで別に支障はなかったのである。

 この結果、当時『時事』で働いていた者さえ、回想の中で社長、主筆、編集長を、福沢といったり中上川といったりする状態となっている。ここでは、その事情を確認した上で、編集と経営を実質的に統括していた「初代社長」中上川の人物と、その社長時代を概観してみたい。

 中上川彦次郎は豊後国中津藩の藩士の子として安政元(1854)年に生まれた。時事新報時代の中上川母は福沢の姉・婉(えん)、つまり福沢の甥(おい)に当たる。漢学や英語を学んだ後、明治2(1869)年16才で叔父を頼って上京し慶応義塾に入る。塾生時代は、「僕は外務大臣になるか、さもなくば新聞記者になるつもりだ」(菊池武徳『中上川彦次郎君』)と気焔を吐いていたという。

 「彦次郎はわたしのためにたったひとりの甥で、彼方(あちら)もまたたったひとりの叔父さんで、ほかに叔父はない、わたしもまた彦次郎のほかに甥はないから、まず親子のようなものです」と『福翁自伝』にあるように、福沢は中上川を家族同様に迎え入れて、諸事に便宜を与えた。明治7年10月からまる3年間のロンドン留学も、福沢が費用全額を負担した。こうして粗野な一書生は、ハイカラな英国紳士に変身して明治10年12月に帰国する。

 イギリス留学中に彼は、財政経済調査に来ていた井上馨と出会う。能力を高く評価され、帰国後直ちに工部省御用掛になり、翌年には井上と共に外務省に移って、公信局長となっている。明治14年、井上も一枚かんでいた福沢の新聞発行計画が進みはじめるとこれを担当する運びとなり、官界からの辞意を表明していたところへ、例の明治14年の政変によって政府を追われることとなった(第2回参照)。

 こうして彼は明治15年3月、29歳の時に、なるべくして『時事』社長になったわけだが、これに先立つこと4年、留学から帰国直後の明治11年3月にも福沢が刊行していた日刊新聞『民間雑誌』の編集長に就任したことがあった。この新聞は『家庭叢談』(明治9年9月創刊)と題して公刊されていた福沢門下生の論文雑誌を改題し、さらに日刊に改めたものであったが、同年5月に掲載した大久保利通暗殺に関する論説が当局の忌諱(きい)に触れ、すぐに廃刊となってしまった。中上川に新聞を任せてみたいという福沢の意向は、数年越しで『時事』において結実したのである。

 中上川が社長として統括した仕事は、編集と経営に分けられた。まず編集については、紙面の中心をなす論説が福沢の管理下にあり、それ以外の紙面作りを中上川が取り仕切っていた。紙面整理の実務は、担当責任者に任せていた(のちに「総編集」と呼ばれるようになる)。また中上川は自らも論説や雑報記事を執筆した。経営の面では、紙面作りと連動した営業方針を中上川が決定していたと考えられる。会計についても担当責任者が別におり(「会計主任」と呼ぶ)、金銭の出納や人事は福沢が直接管理していた。

 中上川社長の下、『時事』の独自性は確実に世間に認知された。すなわち紙面の上では、特徴ある主張の論説に加え、正確迅速な報道を売りものとし、経営面では、当時軽視されていた広告に力を入れ、様々なイベントで人目を引いて、広告・販売収入の拡大を図ったのである。

 何がそれを可能ならしめたのだろうか。

 まず報道については、中上川と外務省との太いパイプが、情報源として大いに活用されていた。外務省の中にいなければ知り得ない情報や電文が、『時事』には掲載された。外交問題かまびすしい世上にあって、これは『時事』の信頼を高めることに大きく貢献した。

 また、外国報道については、英米から最新の新聞雑誌を定期的に取り寄せ、他社より深く正確な情報を提供することを常に意図していた。

 さらに、広く日本・世界に所在する慶応義塾出身者を情報収集に利用できるという強みがあった。福沢の個人的交友関係も活用されていたようだ。実際紙面には、全国・世界各地の「社友」からの通信が頻繁に掲載されている。

 報道の質を高めるため、記者自身に取材させることを重視したのも中上川の方針である。従来の新聞社には記者の他に「探訪員」と呼ばれる者がおり、街中で雑報記事のネタを収集しては社に持ち帰って報告し、それを記者が記事にしていたが、探訪員は素性の知れない者が多く、情報も不正確であった。『時事』では記者自身が自分の足でネタを集めてくるよう命じられ、記事の確実性は格段に高まった。現在通常の記者のあり方はここから始まっている。

 一方、経営の面では、中上川の種々のアイディアが広告・販売収入の確立を生んだ。当時の記者が次のような面白い回想を残している。

 中上川彦次郎氏は英国滞留中に研究して来たものと覚しく、新聞経営には広告を取るのが最も必要である事を感じて種々工夫を案出し、明治十六七年頃時事新報が一時日本橋通三丁目の角に引き移った時、中上川氏はその二階の窓より多数の風船玉に、広告するならば日本一の時事新報に広告するに限るという宣伝ビラを結び付け、大空に向かってこれを放ったが、非常に遠方までまき散らされて、爾来東京の新聞中では時事新報が一番広告が多かった。(高橋義雄『箒のあと』)

 このようなイベントの他にも、読者プレゼントを実施したり、ピンク色の用紙で紙面を印刷するなど、話題にのぼる紙面作りが常に心掛けられていた。

 こう見ると、中上川なる人物、どれほどユニークで社交的な人物かと想像をたくましくせずにはいられないが、事実は見事に期待を裏切る。彼のモットーは「Friend is friend, business is business」で、公私を判然と区別した。社員の言は良く聴いた上で即決し、どれだけとうとうと説明しても、単に諾(イエス)、否(ノー)とのみ返答するという主義だった。仕事上はとにかく無愛想で、「早く帰れと言わぬばかりの態度」だった、とは『時事』退社後の話であるが、中上川の娘婿・池田成彬(いけだ・しげあき)の回想である。しかし決断すればテコでも動かず、社員を信用して仕事を任せるスタイルは、なかなか部下の信望を集めたようだ。

 そっけなさと決断力に加えて、皆が口をそろえて伝えているのは独自の礼節を身に付けていたことである。福沢同様、誰に対しても「○○さん」と呼びかけるなど言葉遣いが丁寧だったことのほかに、石河幹明はこう振り返る。

 新聞社の編輯室というものは、元来乱雑になっているものです。したがってこの室に出入りする者の態度動作も、とかく粗雑に流れ易いものであるが、中上川君が編輯室に入る時には、誰もいないにかかわらず、いつでも帽をとり、礼をされて室に入るのが常であった。(『中上川彦次郎伝』)

 以上のように信念に基づく強力な手腕と独特な個性を併せ持つ経営者であった中上川は、三井時代の中上川明治20年4月に『時事』を退社し、山陽鉄道会社の社長に就任、さらに明治24年8月には井上馨の起用で三井銀行専務理事に迎えられた。『時事』時代の部下を多数起用して三井の経営立て直しに辣腕(らつわん)を振るった中上川は、世間で「日本一の高給取り」と噂され、こんにちでは「三井中興の祖」と呼ばれるに至っている。しかし、その強硬な手法は井上や三井家と衝突を生み、やがて孤立を深めていく。心労の中、腎臓を患った中上川は、福沢と同年の明治34年10月7日、永田町の自邸においてわずか48才で生涯を閉じた。

 その後、中上川に関する資料は、多くが関東大震災で失われた。福沢からの書簡の一部が辛うじて焼失を免れたようだが、『時事』在社時のものは1通も残っていない。幸い関係者の回想や周辺資料が若干残されているので、引き続き多角度から、中上川時代を取り上げてみようと思う。



資料
・第34編「時事新報」(『伝』3巻)。
・「事業家としての小泉、中上川の両君」(岡本貞烋『恩師先輩訓話随録』、実業之日本社、大正3年)。
・菊池武徳『中上川彦次郎君』(人民新聞社、明治36年)。
・白柳秀湖『中上川彦次郎伝』(岩波書店、昭和15年)。
・『中上川彦次郎伝記資料』(東洋経済新報社、昭和44年)。
・池田成彬述『故人今人』(世界の日本社、昭和24年)。
・「新聞の広告」「中上川の半面」(高橋義雄『箒のあと』上巻、秋豊園、昭和8年)。
・『名士の偉人観』(実業之世界社、明治45年)。

画像
・時事新報時代の中上川(明治15年、慶應義塾福沢研究センター蔵)。
・三井時代の中上川(慶應義塾福沢研究センター蔵)。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
Copyright © 2005-2006 Keio University Press Inc. All rights reserved.