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オリジナル連載 (2006年8月31日掲載)

時事新報史

第7回:発行停止の洗礼 
 

























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 『時事』は、しばしば一つのテーマの社説を長期連載し、後にそれをまとめて単行本として出版した。『時事』創刊以後の福沢は、もっぱらこのスタイルで著書を発行している。その先鞭(せんべん)を付けるような大型連載は、「時事大勢論」(明治15年4月5日〜14日、全6回)で、連載終了後「福沢諭吉立案/中上川彦次郎記」としてさっそく出版されている。「福沢諭吉著」としなかったのは、『時事』の表向きの社主が中上川とされ、福沢は名を出していなかったことと関係があろう。「時事大勢論」に続くのが「帝室論」(同年4月26日〜5月12日、全12回)。さらに続いたのが「寡人(かじん)藩閥政府論」で、同年5月17日に始まったが、この連載だけは単行本にならなかった。政府のおとがめを受けてしまったからである。


 この連載では、福沢の持論である「官民調和論」が詳述された。明治政府が、薩長のわずかな人々の独占状態にある歴史的由来から説き起こし、日本が引き続き独立を維持していくためには、政府がもっと門戸を開いて幅広く人を容(い)れ官民の調和を進める必要があり、それが唯一の方法であると説いたものである。


 しかし、連載は中途にして賛否両論、大変な議論を巻き起こす。かたや「政府の提灯持ち」と揶揄(やゆ)され、かたや反体制と目される。福沢はこれをはなはだ迷惑がり、「いずれも困る」と題する漫言を紙面に掲載、「人の言を半分聞いて喧嘩を吹っかけるは、けだし江戸ッ子の気象なり」「訳も分からぬ連中に誉められては、何か気味もわろし外聞もわろし」と、賛否いずれも連載が完結してから議論してもらいたいと、わざわざ釘を刺したのである。


 しかしその甲斐もなく、この漫言の翌日、連載が13回目を迎えた6月8日、『時事』社主・中上川は警視庁に出頭させられ、『時事』の「発行停止」を命じられてしまう。理由は明示されないこととなっていたが、社説が原因であることは明らかだった。『時事』購読者の手元には翌朝、新聞ではなく発行停止となったことを伝える葉書が届けられることとなる。


 当時新聞を規制する最も重要な法令は「新聞紙条例」(明治8年太政官布告第111号)であったが、それ以外に「国安を妨害」した新聞は、内務卿(内務大臣に相当)が発行禁止または発行停止を命じることが出来るとの布告があった(明治13年太政官布告第45号)。発行禁止は、廃刊を意味し、停止は期限付きの休刊ということである(ただし期限はあらかじめ通告されない)。『時事』はこれに基づき発行停止を食らったわけである。


 創刊からわずか3か月、83号目での『時事』発行停止を、世間はさまざまに受け止めた。このことを詠(よ)んだという川柳が2つ伝えられている。


  爺(じじ)さんは八十三で腰を折り


  三田の爺八十三で賀の祝い


「時事」を「爺」とひっかけ、第83号で発行停止になったことを諷(ふう)している点では共通しているが、その意味合いは全く逆である。前者は「天狗」の高説の「腰が折られた」と冷ややかに見る一方、後者は『時事』もようやく政府に目をつけられて、「一人前になった」と祝しているのである。


 当の福沢は発行停止を、「人身に免れざる疱瘡(ほうそう)のごときもの」として「この方もわるし、先方もわからんや」と達観し、たわむれに次のような漢詩と川柳を残した(書簡666)。


新聞条例莫丸呑     新聞条例まるのみにするなかれ
停止亦是一時煩     停止もまたこれ一時のわずらい
弘法筆誤猿落樹     弘法も筆の誤り猿も樹より落つ
記者赤面赤如猿     記者の赤面赤きこと猿に似たり


春風や座頭も花の噂して


 わけもわからんくせに何を言いやがる、という気持ちが特に川柳には良く表れているように思われる。


 発行停止から4日後の6月12日午後6時過ぎ、中上川が再び警視庁へ呼び出され、『時事』は晴れて「解停」(停止解除)となった。発行再開後最初の社説「時事新報発行解停」(6月13日付)では、官民調和論が世間に一向に理解してもらえないことについて、次のように不満を吐露している。


「…困却なるは、我輩の論旨はひたすら社会の調和を目的としたることなるに、さきには民権家に叱られ、今また官に叱られたるの一事なり。この様子にてはむしろ口を閉じて天下のことを言わずと、あたかも悟道せんか、これも余り古風にして当世に不似合いなり。……人よりいかなることを仕向くるも、我輩はこれを怒るものにあらず、他人我を容れざるも、我よく他人を容るるの一義は我輩の常に守るところなり。」


 その上で、「発行停止」の理由が明示されないことを逆手にとって、この社説を不敵にもこう結んでいる。


「藩閥寡人政府論の残余、なお数編あり。逐次これを発兌すべし。大尾(たいび)の後は、いかようにも高評あらんことを乞うのみ。」


 こうして連載は平然と続けられ、17日に完結している。しかし、政府としてはまざまざと連載を完結されたことによほどたまりかねたらしく、内閣書記官からの告発という形で連載の第12回が「官吏侮辱罪」(旧刑法第141条)に問われ、仮編輯長大崎(牧野)鈔人(おおさきしょうじん、いわゆる「牢行名義人」)が裁判にかけられることとなった。法廷の様子を、社員の岡本貞烋は次のように伝えている(『恩師先輩訓話随録』)。


 「いよいよ公判が開かれると、故沢田俊三君、波多野承五郎君二人が弁護人となって出廷し、故沢田君は法律上の弁護をし、波多野君は〔社説の〕文章の解釈人として〔福沢〕先生の意旨をうけて充分明快に陳述し、説き去り説き来たって、法廷はあたかも政談演説会のようなありさまになって傍聴人も皆魅せられてしまったということである。そのようなわけで被告の気勢が旺(さかん)であるだけ官の方の疑心も増して、面白からぬ次第になりそうなので、当時同窓中にも検事の職を奉じていた故山中孝義君という人が心配をして、故是恒真棹[原文ママ]君を介して私に内々に申し送るに、段々の弁護で筋道も誠によく通り、論説の正しくして無理ならぬ事もわかったが、しかしいったんああいうものを書いてしまったことであるから、政府の怒りを買って罪ありと認められたものはどうも仕方がない。あれだけの弁論でいうだけのことも言ったしするから、穏やかにもういい加減にして服罪してはどうかと忠告してきたので、先生にもその旨を通じ、それもまたもっともであると、遂にその言葉に従って納まりがついた。」


結局9月19日、大崎に対して重禁固22日、罰金7円の判決が下って幕となり、「寡人藩閥政府論」は単行本にならずにお蔵入りとなった。


 新聞圧迫を目的とした「新聞紙条例」は、翌年さらに厳しい内容に改められ(明治16年太政官布告第12号)、発行禁停止が条例に盛り込まれ内容が拡大されたほか、発行保証金制度が創設され、東京では1000円、京都・大阪・横浜などでは700円、その他の地域でも350円の保証金納入が義務となり、新聞紙を財政面から圧迫する。これによって経営困難となった新聞社は実に多く、東京では新条例公布から1か月で16紙が廃刊に追い込まれたという。


 『時事新報』はこの後も何度か発行停止の憂き目にあうこととなるが、そのことについては、また逐次述べていくこととしよう。



資料
・「いずれも困る」『時事新報』(明治15年6月7日付)。『全集』8巻にも収録。
・ 書簡番号666、明治15年6月24日付山口広江宛、『書簡集』3巻。
・ 富田正文『福沢諭吉の漢詩三十五講』(福沢諭吉協会、平成6年)。
・「時事新報発行解停」『時事新報』(明治15年6月13日付)。『全集』8巻にも収録。
・「時事新報」(雑報記事)、『時事新報』(明治15年6月13日付)。
・「先生の『藩閥寡人政府論』と時事新報の発行停止」(岡本貞烋『恩師先輩訓話随録』、大正3年)。

画像

『時事大勢論』表紙  『全集』5巻より。

 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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