第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第19回

みんぱく雑話
―国立民族学博物館「70年万博収集資料」展に寄せて―

 

 もう四半世紀前のことになる。当時大学生だった私は、右も左も、仏語も独語もおぼつかないまま、ユーレイルパス片手に貧乏旅行を楽しんでいた。花の都パリでは、エッフェル塔の対岸のシャイヨー宮(旧トルカデロ宮)にあった人類博物館(Musée de l'Homme)を訪問。重厚な宮殿のなか、古めかしい展示ケースに並べられた膨大な「未開文化」の資料に圧倒され、南米展示の資料採集者にレヴィ=ストロースの名前を見つけた時は昂奮を抑えられなかった。と、そのうち、アジアのコーナーにたどり着くと、多様な民族にまじって「Japon」の展示ケースがあった。展示されていたのは、岡山の刀鍛冶の道具と写真。ここで、はたと疑問に思う。刀鍛冶は確かに日本の文化だが、はたしてそれは「日本」を代表しているのか? ということは、これまで見てきた様々な展示も、どこまで当の民族の「代表」なのか? この当惑が、「オリエンタリズム」や「表象の危機」といった概念で、八〇年代以降の人文学の中心的課題に連なっていると知ったのは、不勉強な私の場合、大学院生になってからのことだったが、ともあれ、人類博物館で見た「岡山の刀鍛冶」への違和感は、その後も折に触れて思い出された。

 

 この出来事を再び思い出したのは、現在、国立民族学博物館(通称みんぱく)で開催中の特別展「太陽の塔からみんぱくへ:70年万博収集資料」に感銘を受けたからである*1

 

 

今年で開館40周年を迎える大阪吹田の国立民族学博物館は、1970年の大阪万博の会場跡地にあるというばかりでなく、万博テーマ館のために集められた世界各地の民族誌資料がその主要コレクションとなっている点においても「大阪万博の申し子」である。

 

 じっさい、1968年から69年にかけて活動した「日本万国博覧会全世界民族資料調査収集団(Expo’70 Ethnological Mission、略称EEM)」は、大阪万博をステップに民族学博物館の実現を目指していた。少なくとも、若き日にトルカデロで学んだテーマ館プロデューサー岡本太郎、その下で収集団を指揮した「東西の手配師」こと泉靖一(東大)と梅棹忠夫(京大人文研)、二人の下で世界各地に足を運んだ若き人類学徒たち(その中には、石毛直道、野村雅一、松原正毅らの人文研助手も含まれていた)にとって、「万博から民博(民族学博物館)へ」という目標はゆるぎないものだったのだ。

 

 今回の特展が興味深いのは、そうした「民博前史」を、1960年代世界史に位置付けようとした点である*2。導入部には、キューバ危機、ベトナム戦争、アポロ月面着陸といった60年代主要事件が写真パネルで紹介され、それに続いて、世界各地に赴いた調査団の収集資料が並べられる。そのあり方は「1960年代の世界」を如実に示している。単純なところで、日中国交回復(1972年)以前に収集された資料に中華人民共和国は含まれず、かわりに台湾の資料がある。異文化を非歴史的な「民族誌的現在」において表象してきたきらいのある人類学も、同時代の「歴史的文脈」を免れることはできない。学術とて時代の制約下にあるという至極当然の事実を、1960年代という時代相に即して可視化したところが今回の特展のキモといってよいだろう。その意味で、本展は国立歴史民俗博物館で昨年開催された「1968年:無数の問いの噴出の時代」展に比すべきものかもしれない*3。というのは多分に業界人的感想で、普通に見れば「仮面と神像がたくさん並んでいて面白い」ということになるのかもしれないが。

 

 「大阪万博」を期待すると肩透かしを食らうかもしれないが、ともあれ、非常に充実した展示だった。ぜひ、みなさまにご覧いただきたい。関係者でもないのに切に願う。本連載も、勝手に特別展に協賛して「みんぱく雑話」を紹介してみよう。

 

 現在の国立民族学博物館の前史として、長きにわたる設立運動があったことは、関係者にはよく知られたことだろう。戦前の皇紀2600年記念、1950年の文化財保護法施行時、1968年の明治百年記念など、国立民族(学)博物館の設立運動は、折に触れて実施されてきた*4。そしてその担い手は、民族学者(人類学者)たちであり、日本民族学会あるいは民族学振興会といった学術団体だった。それらの理事や会長を務めた渋沢敬三(1896-1963)は、当然ながら運動の中心人物となる。

 

 これに際して、京都に博物館を誘致する構想があったことはあまり知られていない。提案者は梅棹忠夫。渋沢が平安時代の法令「延喜式」に即して資料を集めた「延喜式博物館」を構想したことを聞きつけた梅棹が、京都会館(現ロームシアター京都)の建設などで整備事業が進められていた京都岡崎への誘致プランを提案していたのだ。詳しくは近刊の拙稿「「延喜式博物館」京都岡崎誘致構想」を御参照いただきたいのだが、同稿では、この提案に至った梅棹の状況を説明する紙幅がなかった*5。なので、ここで若干補足しておきたい。

 

 梅棹の提案は1956年6月19日付の渋沢宛書簡(財団法人渋沢史料館所蔵)においてだったが、同じころ、梅棹は1956年7月12日付「京都新聞」に「京に民族博物館を―中東学術調査展を機に―」を寄せている。

 

 「中東学術調査展」とは、梅棹も参加して前年(1955年)に実施された京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊の収集資料を京都国立博物館で展示したもので、これに際して執筆されたのが「京都新聞」記事である。この学術探検で梅棹のフィールドとなったのはアフガニスタンのモゴール族。その詳細は梅棹の出世作『モゴール族探検記』(岩波新書、1956年)に詳述され、その体験は後の『文明の生態史観』(中央公論社、1967年)にもつながっている。同時にこの調査は、梅棹にとっては、みんぱくにもつながる重要な契機だった。調査において、現地の民具などを収集しなければならないが、収集したところで収蔵先となる民族(学)博物館が日本にない。かといって、収集資料もないのに博物館という箱だけ用意するわけにもいかない。このジレンマに悩まされた梅棹は「京に民族博物館を」と提案する。

 

世界中とはいわぬまでも、せめてアジアの諸民族についてだけでも、十分な資料をもった博物館を、日本につくるべきだとおもった。京都は、大谷探検隊以来、アジア探検の伝統もあり、極東におけるアジア研究の中心地である。そういう博物館を建設するには最適の土地だとわたしは考えている。*6

 

 大谷探検隊を引っ張り出して京都人なかんずく仏教関係者にアピールしようとするあたりが、さすがの嗅覚である。この記事を踏まえると、渋沢への提案も、文字通りの延喜式博物館構想である以上に、民族(学)博物館への模索なのだろう。それは渋沢にしても望むところであったはずだ。もし京都岡崎に民博ができていたら、それはそれで面白かっただろう。とはいえ、スペース的に現在の規模に及ばなかっただろうから、まあ、致し方ないのだが。

 

 閑話休題。もう一つ、民博がらみのエピソードを紹介したい。主な登場事物は、渋沢敬三、桑原武夫、そして元台北帝大教授の人類学者・金関丈夫(1897-1983)である。

 

そのとき、桑原武夫とは初対面だった。その後も会ったことはないが、数年前、京都大学の人文科学研究所で人類学会があったとき、中庭の芝生の上で、今西錦司などと話していると、そこへ桑原がやってきた。私を見るとひらきなおって、「きみは怪しからん。人類学者ともあろうものが」と、そこまではこの通りの言葉で、そのあとは、日本人女性の代表タイプとして、祇園の芸者の写真を、トロカデーロの陳列に提供するとはなにごとだ、という意味のことをいって、私をきめつけた。桑原はちょうど、 フランスへいってきたばかりの時で、パリでその陳列を見て、憤慨して帰ったところだったらしい。*7

 

 時は1951年10月27日。所は京大人文研の北白川の所屋。この日開催されていた日本人類学会・民族学会連合大会の場で、金関は初対面の桑原に唐突に糾弾されたという*8。トルカデロの日本展示に、祇園の芸妓・里代を日本人代表として展示させるとは何事か、というのがその罪状だった。ところが後日、こちらも学会の場、芸妓・里代がトルカデロに展示されていたことを金関は感謝される。感謝の主は渋沢敬三。この件、桑原も渋沢も誤解している、と金関はいう。

 

祇園芸妓 里代

 

 事の顛末はこんなことだった。1934年、金関がヨーロッパ留学する際、悪友に記念品として芸妓のブロマイド4、50枚あまりを渡された。留学先で出会った人々に一枚ずつ選ばせて進呈すると、その美人観がうかがい知れてなかなか面白かったが、そのうちそれにも飽きてしまい、最後には、残りのカード2、30枚を、トルカデロで世話になった女性事務員にまとめて渡してしまった。ここまでが金関の関与で、後日、その中に含まれていた里代が、どういうわけか日本人代表として、「カナセキ教授提供」のキャプションとともに展示されることになった。ゆえに、桑原に怒られる筋合いも渋沢にほめられる筋合いもない、というのが金関の言い分なのである。そして後日、金関自身も「里代」に再会する。

 

三年前に、そのトロカデーロの人類博物館が会場になって、第六回国際人類学会がひらかれ、私にも出席の機会が与えられた。改築されて、見ちがえるように美しくなった館内の、人種学のセクションに、日本人のケースがある。なるほど見覚えのある里代のブロマイドが、もう一人の、名を知らない舞妓といっしょに出ている。そして、カナセキ教授提供ということが、書き添えてある。/学会開催中で、観覧人は学会出席者、すなわち専門家だけだったが、極東のいろいろな民族の、多くは農民や漁民の風俗をした男女のタイプをずっと見てきて、このケースの前へくると、オオ、ジョリー、とかなんとかいって、立ちどまる者がいる。そんな風景を見ているうちに、はじめは桑原側について、館の方へ、こんなつもりで提供した覚えはないと、抗議でもしようと思っていたのが、いつの間にか渋沢気分になって、なに、むこうが勝手にやっていることだ、いいではないか、という気がしてきた。*9

 

 「里代」をめぐる渋沢と桑原の差は、時代差(1896年生まれと1904年生まれ)とも、地域差(関東と関西)とも、階層差(経済人と学者)ともいえそうだし、単純に個人の資質というのが一番正しいのかもしれない。それにしても、「美人観調査」(連載第4回参照)の桑原がこうした難癖をつけていたというのは一寸面白く、また、金関が桑原と同様の手法で桑原に先行しつつ一種の「美人観調査」を実践していたことは、さすがは形質人類学者といったところだ。

 

 それにつけても、何をもって「日本」を代表させるのか? 展示とはかくも厄介な営みである。



   
*1   http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/20180308taiyou/index
   
*2   詳細は野林厚志編『太陽の塔からみんぱくへ:70年万博収集資料』(国立民族学博物館、2018年)参照。
   
*3   https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p171011/index.html
   
*4   国立民族学博物館編・発行『国立民族学博物館十年史』(1984年)など参照。
   
*5   近刊「「延喜式博物館」京都岡崎誘致構想」『京都国立近代美術館ニュース:視る』494号、2018年。
   
*6   1956年7月12日付京都新聞記事。引用は梅棹忠夫『民族学博物館』(講談社、1975年)p. 13より。
   
*7   初出は金関丈夫「トロカデーロの里代」(『群像』18巻11号、1963年)。引用は金関丈夫『孤燈の夢』(法政大学出版局、1979年)p. 248より。
   
*8   連載第12回にこの時の記念写真が掲載されている。画面左手前の渋沢敬三、柳田国男の真後ろに金関が、その右隣の宮本常一の右後方に今西錦司がおり、桑原武夫は画面中央奥の最後列にいる。金関と今西の会話中に桑原が割り込むのは、おそらくこの写真の撮影直後のことだろう。
   
*9   *7に同じ、pp. 250-251より。
   
 


 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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