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人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第4回

桑原武夫の東北
―その「フィールドワーク」を考える―


 観察なき読書人とならないために。展望なき収集家とならないために。これが、今なお桑原が再読に価する最大の理由である。前回、そう論じた。すなわち、桑原は「観察の人」であり「展望の人」だった。そこで今回は前者、いわば「フィールドワーカー・桑原武夫」について論を進めてみたい*1

 

 桑原が「観察の人」であることは、筆者の指摘を待つまでもなく、自他共に認めるところである。桑原を知る多くの者がその実務能力と並んで観察の確かさを指摘し、また、本人も自らが純粋な読書に自足し得ない「観察の人」であることを度々述べている。「すべて私は一つの命題を提出するとき、必らず一、二の実例を脳中にふまえている。またそうでなければ立論しにくい性質なのだ」とあるのもその一つ*2。自身の体験や見聞から遊離することを周到に回避した桑原の著述は、結果として、一種の「資料(ドキュメント)」としての性格を帯びることとなる。誤解を恐れずにいえば、この「資料(ドキュメント)性」こそ、桑原の大いなる魅力なのだ。

 

 ところで、この桑原の観察力が何に由来するのかというと、残念ながらよく分からない。近代的実証主義に実直だった父・隲蔵をはじめとする京大史学科の先達たちの存在、今西錦司の人間的魅力に引きつけられて入部した三高山岳部での体験など、彼の観察力を錬磨したと思われる契機はいろいろ考えられるが、その詳細は明らかではない。いずれにせよ、桑原が「物書き(エクリヴァン)」として登場したとき、彼はすでに「観察の人」だった*3。「文学者」である以前に「フィールドワーカー」だったのだ。

 

 桑原の観察眼は、そのあらゆる文章に顔をのぞかせ、とりわけ、『フランス印象記』(1941弘文堂書房)、『ソ連・中国の印象』(1955人文書院)、『チョゴリザ登頂』(1959文藝春秋新社)といった紀行文に面目躍如たるものがあるが、今回はあえてこれらを割愛する*4。桑原の「東北」という視角からアプローチしてみたいからだ。

 

 「東北」が桑原に与えたものは意外に大きかったのではないか。たとえば、東北帝国大学での桑原の所属先は「文学部」ではなく「法文学部」であり、そのことが経済史家・中村吉治や法制史家・高柳真三らとの交流につながり、「耳学問で若干その方面の常識がつき、研究所へ移って共同研究するさい、大いに役立った」という*5。また、英文学者・土居光知の知遇を得たことは、「私の仙台における第一の幸運」で、「リチャーズのえらさを教えていただき」「そこから戦後「第二芸術」が生まれることに」なった*6。桑原が東北で得たものは、確かにいろいろありそうなのだ。

 

 「フィールドワーク」に話を戻そう。桑原が初めて東北の地を踏んだのは、1936年夏のこと(以前にも通過したことはある)、「遠野から早池峰山に登り、宮古、魹岬崎灯台、盛岡、秋田などをほっつき歩いたのは、柳田国男の『遠野物語』に導かれてのことであったが、同時に、フランス留学を翌春にひかえ、原日本的なものを身体で受けとめておきたいと考えた」からだという*7。その見聞を綴った「『遠野物語』から」(1937)は、明治末期の遠野を活写した『遠野物語』序文の密度の濃い文体に負けず劣らず、昭和初年の遠野を鮮やかに切り取っている*8

 

 次に桑原が東北を訪れたのは、東北帝大赴任の際である。三高のフランス語の恩師・河野与一に赴任を打診された桑原は「五分間で即決」、まだ見ぬ仙台での生活に心躍らせ、この地に飛び込んだ*9。そもそも、敦賀での幼少期を除くと、生涯の大半を京都で過ごした桑原にとって、仙台で過ごした5年間(1943-48)はフランス留学の2年間を超え、桑原にとって人生最長の「洛外」生活である。この間の「異文化体験」は枚挙にいとまが無いが、とりわけ重要なのが、敗戦間近の1945年夏、宮城県北の栗駒山麓の僻地「文字村(もんじむら)」へ疎開したことだろう。

 

 疎開委員を仰せつかった桑原が、大学人というものを理解しない農民と、農民というものを理解しない大学人の間に立って奔走し困惑する有様は「文字村疎開記」(1980)に活写されている*10。そのドタバタぶりの詳細は割愛するとして、本稿の関心から興味深いのは、桑原の娘たちが村の小学校で経験した出来事だ。村の子は用便のときに植物の葉ですませるため、紙を使う彼の娘たちは異端視され、ボスたちに持参した紙を巻き上げられた。また、村の子たちにとって下着のズロースは学校用の「一種の晴着」であり、家に帰ると「早くズロースっ子ぬがねいか」と注意されるものだった*11。国定教科書の「一タバ九本ヅツノネギガ八タバアリマス。ネギハ何本アルデセウ」もそのままでは通じないため、先生が「ねぎっ子青いの知ってっぺ。九つづつたばさしたやつっこ、八つあるのじゃ。そいずでいくらあっぺな。わかるすか」と方言に翻訳して授業をするという有様だった*12。こうした農村生活のつぶさな見聞が、地方と生活を無視した戦後文化運動の批判へとつながっていく*13。「近代主義者」でありながらも「進歩的」運動の観念性を批判してやまない桑原のスタンスに、この文字村の体験も少なからず与っているのだ。

 

 京大人文研へと転任した後も、桑原はたびたび東北の地を訪れた。なかでも、最も本格的な「フィールドワーク」は1954年夏の岩手県江刈村訪問、「しろうと農村見学」(1954)の旅である*14。「日本のチベット」とも呼ばれた岩手県北の僻村・江刈村は、戦後、同村出身で東大の大内兵衛に学んだ経済学士・中野清見が町長となると、貧農たちとの協力のもと、徹底した農地解放を実現、貧困からの脱却をめざして革新的な協同農業を推し進めつつあった。その経過を描いた中野の『新しい村づくり』(1954新評論社)を「一読、近来まれな感動をうけた」桑原は*15、この地を訪れ中野ら改革の担い手たちと面会、彼らの協力の下、二週間あまりにわたって、江刈村とその周辺を見学した。

 

 この地においても、桑原の目と耳はあらゆる方面に研ぎ澄まされる。高度集約協同牧野で着々と共同化を実現する農民たちの「計画と希望に顔をかがやかす」姿に感動し*16、開田費150万円を用意できないにもかからず寺院建立に1千万円を費やす貧村の価値観に当惑し*17、さらには、農地改革を占領政策として非難する左派の農政論を、「ここ東北で読むかぎり「いつわりの農地解放」というリフレーンをもつ、一つのポエジーと見えよう」とその現場感覚の欠如をこき下ろす*18。もとより、桑原の観察とて決して完璧ではなく(そんなものはあり得ない)、その農民の協同へのロマンティックな期待は10年後の再訪で見事にひっくり返されることになるのだが*19、そうした限界はあるにせよ、桑原の描いた昭和20年代、伝統と近代が相克する東北農村の叙述は、今なお価値ある記録といえよう。

 

 そして注目すべきは、この地において桑原が、きわめて「方法論的」な調査に取り組んでいることだ。「美人観調査」である*20。オードリー・ヘップバーン(A)、原節子(B)、木暮実千代(C)、津島恵子(D)、乙羽信子(E)、山田五十鈴(F)、祇園の舞子(G)、と7枚のブロマイドを用意し、被験者に好きな女を順番に並べさせる。その順位を統計処理して、美人観の地域差や階層差をあぶり出そうというのだ。実は、この女優の選択には明解な意図がある。ヘップバーンを最も「西洋風・近代的」、祇園の舞妓を最も「日本風・伝統的」な女性として両端とし、中間をそのグラデュエーションとなる女優を配しているのだ。この調査、被験者となった農民には大いに歓迎され、「ベッピンしらべの先生はいつくるのか」と心待ちにされたという*21

 

1980『桑原武夫集』5

1980『桑原武夫集』5、
岩波書店、pp.180-181より

 

こう書くと単なる慰みのように思われるかもしれないが、実はこれには周到な意図が隠されている。政治的あるいは思想的なことは作為的要素が混入しやすいが、「異性の容貌への好みといったことは反応が直接的であり、またどう答えたところでサシサワリがないから、かえって正直なもの」を捉えられる*22。つまり、「美人」を切り口に「文化的無意識」を抽出しようという明解な戦略があり、さらには、趣味というものが単なる個の営みではありえず、歴史的・社会的拘束性を免れないという、ブルデューばりの社会学的認識に立脚しているのだ。じじつ、調査結果では、ヘップバーンをどうしても女性と認められない古老など、農民の美人観が明らかに「日本風・伝統的」なものに偏り、村のなかでも商業・交通の便の良いところ、また、高学歴層では「西洋風・近代的」なものへの傾斜が見られたのだ。ちなみに、この調査は、行動科学的政治学の基礎を築いたシカゴ大の政治学者ハロルド・ラスウェルより多大な関心と評価を得たという。

 

もとより、この調査が一種の知的お遊びに過ぎないことを桑原は百も承知しているが、同時にそれは知的冒険であり、方法の創意工夫によってさらなる成果を期待し得ることも信じてやまなかった。そしてこの成果を発表した「美人観を調査する」(1958)という一文が、敗戦後盛んに実施された社会調査の少なからぬ部分が、何ら実践的利益をもたらさず、さしたる学問的成果も上げず、ただ、調査された人々に苦痛を強いるだけだったことへの批判から書き起こされているのを踏まえるとき、桑原の「フィールドワーク」の実践が、その学問の根幹に関わる重要な契機であることに思い至らざるを得ないだろう。桑原の「フィールドワーク」は決して余技などではなかった。そして、桑原武夫の東北は、その成長を支えた、豊かな可能性の大地だったのだ。

 最後にもうひとつ、桑原の言葉を掲げておこう。

 

 私は知性そのものといったことにはいっこう興味がないが、知性が現実の事実とぶっつかってどう反応し、処理するかには関心をもっている。そこで初めて知性の本ものとニセモノとがわかるのだから*23

 




   
*1   一部では「フィールドワーカー」概念をより限定的に使用する傾向もあるが(たとえば、ディシプリンの方法論に則ったものに限る、など)、筆者自身は、そうした限定的用法の意義も認めた上で、眼前の社会的事実を経験的に記述する者一般を「フィールドワーカー」と総称して良いと考えている。
   
*2   桑原武夫1980「自跋」『桑原武夫集』1(岩波書店)p.628
   
*3   桑原の著作を年次別に収録した『桑原武夫集』全10巻(1980-81岩波書店)の最初の文章は「尾上郷川と中ノ川」(1930)という紀行文である。また、著作目録に記載された彼の処女作(著作集未収録)は、京都一中の回覧雑誌『近衛』に収められた「夜店のおっさん等」(1919)である。
   
*4   これらは『桑原武夫紀行文集』全3巻(1968河出書房)にまとめられている。
   
*5   桑原武夫1980(初出1954)「自己解説」『桑原武夫集』4(岩波書店)p.212
   
*6   桑原武夫1980(初出1968)「仙台の五年間」『桑原武夫集』7(岩波書店)p.417。当時の東北帝大では教員による俳句・短歌サークルが盛んで、何かの間違いで出席した桑原があまりの低水準に失望し、そのことが「第二芸術」につながったという「第二芸術論仙台発祥説」もある。
   
   
*7   桑原武夫1980(初出1967)「東北の可能性」『桑原武夫集』7(岩波書店)pp.212-213
   
*8   桑原武夫1980(初出1937)「『遠野物語』から」『桑原武夫集』1(岩波書店)。このエッセーは今なお秀逸な柳田論、『遠野物語』論であり、柳田国男1974『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)にも、書き下ろしの解説とともに再録されている。
   
*9   桑原武夫1980(初出1948)「仙台を去るにあたって」『桑原武夫集』2(岩波書店)p.417
   
*10   以下、桑原武夫1981(初出1980)「文字村疎開記」『桑原武夫集』10(岩波書店)による。
   
*11   同前pp.402-403
   
*12   同前p.402
   
*13   桑原武夫1980(初出1948)「地方文化私見」『桑原武夫集』2(岩波書店)
   
*14   以下、桑原武夫1980(初出1954)「しろうと農村見学」『桑原武夫集』4(岩波書店)による。
   
*15   同前p.220
   
*16   同前p.234
   
*17   同前p.251
   
*18   同前p.232
   
*19   桑原武夫1980(初出1965)「ふたたび江刈村へ」『桑原武夫集』7(岩波書店)
   
*20   以下、桑原武夫1980(初出1958)「美人観を調査する」『桑原武夫集』5(岩波書店)による。同1980(初出1946)「趣味判断」『桑原武夫集』2(岩波書店)、1981(初出1979)「風俗学とその周辺」『桑原武夫集』10(岩波書店)もあわせて参照。
   
*21   同前「美人観を調査する」p.177
   
*22   同前p.178。この調査の着想は戦前に遡る。桑原の教える学生たちが、日本髷を結った明治の芸妓の写真に全く反応しなかったことがきっかけだった。そしてそのアイデアは今西錦司に伝えられ、戦時中の蒙古で実施される。ブロマイド10枚を蒙古人に見せたところ、彼らは例外なく一人のスターを選び、「こんな美人は日本人ではありえない、漢人にちがいない」といいはったという(同前pp.178-179)。日本軍政下にあっても、蒙古人の漢人崇拝意識は変わらなかった。この今西による「予備調査」の成果に、桑原は自信を深めたという。
   
*23   桑原武夫1980(初出1950)「法隆寺の壁画」『桑原武夫集』2(岩波書店)p.507
   
 
〔付記〕   第3回のタイトルを「桑原武夫の何がそんなに偉いのか?―その1:「歴史家・桑原武夫」を考える―」(初出時)とした以上、第4回は「桑原武夫の何がそんなに偉いのか?―その2:「フィールドワーカー・桑原武夫」を考える―」とするべきところなのだが、そして実際、その通りの考察を展開したつもりだが、タイトル自体はより内容に即したものということで「桑原武夫の東北―その「フィールドワーク」を考える―」に変更させていただいた。これに合わせ、初出時の第3回タイトルに付した「その1」という言葉も、不要かつ誤解を招く表現なので、取らせていただいた。もちろん、本文は全く変更ない。この件、ご了解を乞う。

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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