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人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第12回

宮本常一と水野清一
―「新しい歴史学」としての考古学とミンゾク学・その3―

京都大学人文科学研究所の中庭で撮影された第6回日本人類学会・日本民族学協会連合大会(1951年10月27日)の記念写真(写真クリックで拡大)。左側手前に渋沢敬三、柳田国男が座り、その二人後ろに宮本常一がいる。

京都大学人文科学研究所の中庭で撮影された第6回日本人類学会・日本民族学協会連合大会
(1951年10月27日)の記念写真。左側手前に渋沢敬三、柳田国男が座り、その二人後ろに宮本常一がいる。

 

戦争のすんだころ、私はよく浄土寺馬場町の水野清一氏のお宅にとめてもらった。水野さんは当時東方文化研究所に勤めていた。後の人文科学研究所である。りっぱな学者が雲のごとくいて、われわれのような田舎者をとらえて議論をふっかけて面白がっていたといっては語弊があるが、とに角どんな一知半可な知識でも吸収する活動をつづけていた。そして話がはずむと夜に入り、そのまま水野さんのお宅へ宿を借りることになる。私はそこで京都のすぐれた学者たちを知ることができた。と同時にそのあたりを歩きまわる機会を持った*1

 

 民俗学者・宮本常一(1907-81)の言葉である。ちょっと意外かもしれないが、「旅する巨人」は京都の水野と親しく交わり、さらには京都の学者との交流を深めていた*2。それは、単なる個人的な結びつきにとどまらない、京都・関西の知的エコロジーの問題、そして、考古学とミンゾク学という二つの「新しい歴史学」をめぐる歴史的状況が作用しているように思われる。今回は、二人を結びつけた機縁をたどり直し、二つの学問の位置関係を考えてみよう。

 

 宮本と水野が出会うのは1944年、兵庫県西宮市でのこと*3。ここに至る宮本の来歴を確認しておくと、宮本は水野より2年下の1907年生まれ、16歳で郷里・周防大島を離れ、大阪へ。いったんは郵便局員となるも師範学校に入り直し、1929年より小学校教師となる。この間、民俗学への傾倒を深め、その活躍は全国の民俗学徒にも知れ渡るところとなる。1939年、渋沢敬三の誘いにより小学校を辞して東京へ。渋沢の主催するアチック・ミューゼアム(1942年、日本常民文化研究所に改称)に入り、以後5年間、国内各地を精力的に調査する。その宮本が戦時色の強まる東京を逃れ、奈良の郡山中学に職を得て大阪に戻ったのが1944年、ということになる。

 

 では、なにゆえ西宮だったかというと、西宮の郷土史家・田岡香逸(1905-92)が宮本の帰阪を待ち構えていたからである*4。田岡は水野と同じ1905年生まれ、神戸一中を卒業後、家業の井戸掘り業のかたわら、地元西宮の考古・民俗について研究を続け、「西宮史談会」を主催、西宮神社宮司・吉井良秀、銘酒白鷹社長・辰馬悦蔵、銘酒白鹿重役・柳生健吉など、学問に明るい郷土の名士たちが集い、田岡邸は一種のサロンとなっていた。その田岡が、未だ面識のない宮本に書簡を送り、宮本の歓迎会を開催、さらには宮本を講師とした民俗学の連続講演会を企画し、宮本を郷土史家のネットワークにつなげていったのだ。その田岡邸の様子を宮本は次のように記している。

 

 

 田岡さんの家は西宮神社の北側にあった。大きな二階建てで、玄関を入るともうそこに本がぎっしり積んである。どの部屋も書架で、そこにならんだ本のほとんどは考古学関係のものであった。よくあつめたもので、一五〇〇冊はあろうという。考古学関係のコレクションとしてはほかに類例がなかろうとのことで、京都大学の考古学関係の人びとが始終利用しているという。
 関西にはこうした民間学者が昔から多かった。商売に従事しながら書物をあつめ書物を講じて子弟を教育する。[…]財政的余裕のある者が学問に精をだし、日常生活をゆたかにしようとする風習は、関西には早くからみられ、それがひとつの伝統となっていたのであるが、西宮もまたそうした町のひとつで、そこに住む文化人たちは、それぞれ自分の専攻する学問にひとつの見識をもっていた*5

 

 ここで注目すべきが「京都大学の考古学関係の人びと」である。後に辰馬考古資料館を設立することとなる銘酒白鷹社長・辰馬悦蔵は京大史学科の出身であり、この頃考古学研究室の助手を務めた小林行雄は神戸一中卒で田岡の後輩、そして水野も神戸出身であり、京大考古関係者はこの地になにかと縁が深かった。結果、西宮を接点として宮本と水野が出会うこととなる。その様子を宮本は以下のように回想する。

 

 

 その頃はすっかり田岡さんとも親しくなり、水野、小林さんたちもこの会の日は京都から出てきて、講座のあとはお互いに熱をあげて話しあい、たいていは終電車でひきあげることになった。この一種の放談会は、私にとってどれほど役にたったかわからない。まず考古学についての眼をひらかされた。水野さんは中国山西省の大同石仏の調査に一〇年あまりをかけた人である。私はそうした話を通じてはじめて、中国の文化を書物で読むよりはもっとなまなましい感覚で理解しはじめた。そして、できればこの一行について調査に出かけたいものだと考えるようになった*6

 

 残念なことに、宮本の中国調査への同行が実現することがなかった。西宮での水野の東亜考古学講義を宮本が聞いたのが1945年4月15日*7。この年、水野自身も計画していた中国渡航を実現できず、やがて敗戦のため大陸への道を断たれることになるわけだから、宮本が行けなかったのも当然といえば当然である。

 

 だが、彼らの出会いは一つの調査に結実した。西宮の酒蔵調査である。先に挙げた白鷹社長・辰馬悦蔵との出会いを機縁として、宮本は1944年秋より酒蔵に訪れる丹波杜氏たちからの聞き取り調査を開始する。その流れで1946年より水野・小林が酒蔵および酒蔵道具の実測調査を実施。それは物質文化のみならず、人々の生活そのものへの関心を忘れることのなかった水野にとって、「大陸」を失ったがゆえに実現された調査ではあったにせよ、至極真っ当な試みであったに違いない。「京都帝国大学文学部」や「東方文化研究所」の用紙に記された調査データは、その後長らく京大考古学研究室に保管され、近年、辰馬考古資料館編・発行2005『酒庫器物控』として陽の目を見ることとなった。

 

 宮本と水野の関係は、もう一つ、奇妙な協同を実現させる。それは、大東亜学術協会への宮本の参加である。前回述べた通り、大東亜学術協会は、1942年夏、学術調査研究による大東亜共栄圏への寄与を目的に設立されたもので、会長・新村出(京大名誉教授)以下、東方文化研究所を中心に京都の人文学者を総動員したような団体だった。その協会の雑誌が戦時出版統制のあおりを受け、『ひのもと』『学藝』『学海』とめまぐるしく改題されたことも前回指摘した通りだが、これらの雑誌に宮本はたびたび寄稿しているのだ。

 

1945.12「履物に寄せる心」『学海』2/8
1946.02「履物に寄せる心(下)」『学海』3/2
1946.10「二人の友」『学海』3/7
1947.11「山の神楽」『学藝』3/8
1947.12「太鼓踊」『学藝』3/9
1948.09「墓石の起源」『学藝』5/6

 

 そればかりではない。1945年8月、宮本は大東亜学術協会主催の講座にも登壇、東方文化研究所の講堂――現・京大人文研分館講堂――で講演している。それは以下の一連の講演とともに東方学術協会編1946『東亜に於ける衣と食』(全国書房)として刊行されることとなった。

 

 8月4日 宮本常一(日本常民文化研究所員)「日本に於ける食事情の変遷」
 8月11日 上村六郎(染織文化研究所長)「伝統を生かす染色」
 8月18日 青木正児(京都帝国大学文学部教授)「支那に於ける粉食の歴史」
 10月28日 並河功(京都帝国大学農学部教授)「東亜園芸瑣談」(於京都帝大高槻農場)
 12月10日 太田英蔵(川嶋織物研究所員)「東亜の織物とその技術」

 

この講座が興味深い――もっと有り体にいって「間が悪い」――のは、8月15日の敗戦をまたいで実施されている点である。「時局のもつとも緊迫し、世情のもつとも梗塞した昨年の夏企画」された公開講座が*8、敗戦後そのまま継続され、そのまま刊行されたわけだ。大東亜学術協会(戦後、東方学術協会に改称)に関わった京都周辺の人文学者たちの「ブレのなさ」というべきか「時局の読み違い」というべきか。じっさい、当時が衣食において「非常時」だったことは間違いなく、講演でもその点は言及されているが、主たる内容は各自の研究紹介が中心で、時局への即効性はなく、戦争を鼓舞する文言もほとんど見当たらない*9

 

 講座のトップバッターを飾った宮本は、戦災で自宅が焼失し、本やノートも失ったため正確な話はできないとしながらも、アチック・ミューゼアム同人として全国各地をめぐり歩いた5年間の成果をふんだんに活用し、米、雑穀、芋、魚、塩などの生産と消費をめぐる民俗を紹介する。そして、「今日吾々の食事情が逼迫した大きな原因の一つは、米だけが食べ物だと考へたところにある。しかし米のみに依存するのは危険であり、真に食糧問題を解決するものではない」と述べ*10、「雑草食」その他の「合理的な耐乏生活を打樹てなければならないと思ひます」と指摘する*11。そのほか、米食習慣の新しさや「藁」採取を目的とする稲作の指摘など、その後の宮本の生業・生活論に連なっていく内容となっている。なお、宮本の日記には、「午后2時、東方文化研究所に行き、食事情の変遷についてはなす。集るもの50名あまり、熱心にきいてくれる」と記されている*12

 

 さらには、実現しなかった二人のコラボレーションも興味深い。それは、考古学調査への宮本の参加である。敗戦により大陸への道を断たれた日本の考古学者が、戦後、対馬・壱岐をめざし、大陸考古学の次なる展開を模索したことは前回指摘した。一方、宮本のパトロンにしてアチック・ミューゼアムの主催者たる渋沢敬三が、人文社会科学の大同団結を企図して九学会連合(最初は八学会連合)を組織、その「共同調査」の最初のフィールドとして、戦後、軍事拠点がなくなったことから調査が可能となった「対馬」に白羽の矢を立てたことは、これまた良く知られたところだろう*13。こうして、水野と宮本は同じフィールドに対峙することとなる。

 

 これに関して興味深い資料が残されている。壱岐の郷土研究で名高い山口麻太郎(1891-1987)宛の書簡である*14。歴史、考古、民俗、言語――壱岐島に関わることなら何でも研究した山口は、東亜考古学会や九学会連合の調査に際して現地エージェントの役割を担わされることとなったが、そのため、水野、宮本も山口の助力を得ることが常だった。現在は長崎歴史文化博物館に所蔵されている山口宛宮本書簡からその一端を垣間見ることができる。1951年1月3日の年賀状には次のようにある。

 

 水野清一教授からさそわれて壱岐島考古調査に参加するようにとの事で、手続をとりました。もう尊台が一切をやりつくされて居りますのでどうかと思いましたが、勉強になると思つて、あとへついてゆく事にしました。

 

 宮本は水野の考古調査に参加することを山口に告げている。壱岐で「考古学者・宮本常一」が実現する可能性があったわけだ。実現したなら、どのような展開があったのだろうと想像せずにはいられないが、残念ながらそうは問屋が卸さなかった。同年5月30日の封書がその経緯を伝えている。

 

 それから今夏の水野氏の壱岐調査には私は参加しない事になりました。今年は壱岐対馬両方で七〇万円しか出ず、そのうち壱岐は十万円で水野氏も原ノ辻の調査がやっとこさだろうと言つています。その上水野氏も二月以来病気で久しく休んで居り、近頃おきた所で、あまり無理はできないようです。私の方も対馬は私費で行かねばならなくなり、さらに窮屈な調査になるだろうと思つて居ます。

 

 こうして「考古学者・宮本」と水野のコラボは未遂に終わる。だが、宮本は引き続き考古学への関心を抱き続け、水野の仕事に多大な敬意を払っている。1953年10月1日付ハガキは、水野清一編著1953『對馬 玄海における絶島、對馬の考古學的調査』(東亜考古学会)について次のように述べている。

 

 水野氏がいい仕事をせられるのには感じ入ります。大陸できたえた人は内地できたえた人よりちがいますね。「対馬」なんか実にいい本だし、多くの考える問題を与えてくれましたが、「原ノ辻」はそれだけに期待しています。

 

 こうして宮本が考古学から受け止めた知見は、その後の宮本民具学の展開に何らかの刻印を残していると予想される。紙幅も尽きたので、今はその指摘に止めておこう。

 

 1959年、京都大学イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊が始まると、水野は再び大陸に精力を傾注、一方、宮本は引き続き国内の調査に余念がなく、昭和20年代のように二人の協同する機会は多くはなかったと思われる。そしてこの間、戦前にはただ一つ、京都帝大にのみ設置されていた考古学研究室は、全国各大学に設けられるようになり、埋蔵文化財保護の確立とあいまって、考古学界は確固とした制度的基盤を手に入れることとなった。「野の学問」イデオロギーの呪縛からか、アカデミズムでの基盤確立が遅々として進まず現在に至った民俗学とは雲泥の差といって良いだろう。とはいえ、時計の針を1930〜40年代まで巻き戻すと、両者の位置付けはそこまで隔たったものではなかった。程度の差はあれ、両者は地方に散在する資料を発見しその知見を共有するため、郷土の研究者たちとの結びつきを必要とした、いわば、ネットワーク型の学問運動だったのだ。

 

 宮本常一と水野清一。二人の邂逅は、二つの「新しい歴史学」のそんな消息を伝えている。

 

 




   
*1   宮本常一1975『私の日本地図14京都』同友館、p. 48
   
*2   たとえば、毎日新聞社編・発行2005『宮本常一 写真・日記集成 別巻』所収の宮本の日記、1951年5月29日には「人文科学研究所にゆく。柴田[実]、長廣[敏雄]、水野[清一]、貝塚[茂樹]、今西[錦司]、天野[元之助]、桑原[武夫]氏ら集る。今西氏はすぐれたる学者。7時まではなし、鳳にかえってねむる」とある(p. 198)。日記には水野邸への宿泊も毎年のように記されている。
   
*3   以下、宮本常一1993[初出1978]『民俗学の旅』講談社学術文庫による。
   
*4   以下、宮本常一2012[初出1967]「田岡香逸」『宮本常一著作集51私の学んだ人』未来社による。
   
*5   同前p. 37
   
*6   同前p. 38。なお、この放談会は小林行雄にとっても印象深かったようで、「宮本さんとは西宮の友人をまじえてよく話し合った。宮本さんの話を聞いていると、いろいろ教えられることが多かった。話の一つ一つが体験の結晶であるうえに場景描写がたくみであった」と述べている(小林1983『考古学一路―小林行雄博士著作目録―』平凡社、p. 81)。
   
*7   注A日記p. 96
   
*8   東方学術協会編1946『東亜に於ける衣と食』全国書房、p. 1
   
*9   戦後の刊行なので当然といえば当然だが、おそらくそれ以前に、もともとの講演じたいが内容的に戦争を鼓舞できるようなものになっていなかったためと推測される。
   
*10   注Gpp. 65-66
   
*11   同前p. 69
   
*12   注A日記p. 101
   
*13   菊地暁2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二〇世紀―』吉川弘文館、坂野徹2012『フィールドワークの戦後史―宮本常一と九学会連合―』吉川弘文館、など参照。
   
*14   山口麻太郎については室井康成2010『柳田国男の民俗学構想』森話社に多くを教えられた
 
     
 
   
   
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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