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巻頭随筆

何に気づくべきなのだろうか―?「見逃されやすい発達障害」    田中康雄

 

「これまで育ててきて、子どもとはこんな感じという思いと、どうしてウチの子だけという戸惑いがありました。そうですか、発達障害だったのですね」
 「ずっとなんとなく、周囲と違うなと思っていました。そうですか、僕は発達障害をもっていたのですね」
 「一緒になったときは、あまりわかりませんでした。生活を共にするようになり、どうしてそう感じるのかな、とか、なんで、って思うことが増えてきて、多分、夫には発達障害があるのかと、思うようになりました。やはりそうでしたか」
 「最初は真面目で朴訥とした青年だと思っていました。それが、何度も同じ失敗をする、注意してもどこか他人事のようで、真剣味が足りないようで、正直、感情的になったりしたこともあります。わかりました、彼に見合った仕事を提案したいと思います」


 気づかれにくかった発達障害が明らかになったとき、本人や関係者たちがこうした台詞を発してくれたら、舞台はハッピーエンドで幕が下りるのかもしれません。でも現実は、本当に発達障害って診断がつくのですか、やる気がないとかじゃないの、要領が悪いだけでなく努力不足と思うのですが、などなど。正直こうした台詞もよく耳にします。発達障害が醸し出す生活様式は、生来的な特性であると理解する前に、気持ちの問題として誤解されやすいものです。あるいは、別の精神障害の診断が付くこともあります。それが、改めて発達障害の診断が付くと、「そうか、発達障害だったのですね」ということになります。「発達障害」という名称は、様々な誤認、誤解を一掃してくれます。「気づかれた発達障害」のある方には、障害特性に配慮された生活支援が始まります。だから、「見逃されやすい発達障害」という啓発・啓蒙は大切なのかもしれません。

 ここで、なぜ、これまで「気づかれなかった」のか、ということを考えてみたいと思います。
 気づくべきなのに見落としたという行為は、気づく側が自己研鑽を積むべきです。一方で、誰が見ても気づくことが難しかった場合もあるはずです。周囲の思いと支えにより、ずっとなんとなく折り合いがつかないなかで生きてきても大きく逸脱せずに生活できていた方が、仕事に就いた途端に、様々な精神・身体症状を抱え医療機関を受診され、ようやく発達障害と診断された場合、それは“見落とされてきた”といえるでしょうか。気づかれなかったのは、“見落とし”ではなく、逸脱せずに生活できていたからです。いや、そうはいっても、人知れず目立たなかっただけで、本人や周囲は実は悩み苦しみ続けていたという場合も多々あるでしょう。だからといって、いついかなる時でも、こまやかな診察をし、少しでも発達障害の特性をとらえた場合は発達障害と診断し、あるいは発達障害予備軍として丁寧に経過観察することが、見落としを回避することになる、といえるでしょうか。

 発達障害か否かという視点での診察よりも、今この時に出会えた方の生活に辛さや心の痛みがあれば、それがどこから生じたものかに注意し、これまでの生活を振り返り、生活を応援するよう一計を案じ続ける、という精神医学の基盤に立ち返るほうが大切ではないでしょうか。

 常に微細な兆候に気づき、その人やその人の大切な隣人の言葉にならない辛さを見落とさないように診立てる、自戒を込めた精神科医としての僕の独白です。



 
執筆者紹介
田中康雄(たなか・やすお)

こころとそだちのクリニック むすびめ院長。北海道大学名誉教授。児童精神科医、臨床心理士。北海道立緑ヶ丘病院医長、国立精神・神経センター精神保健研究所研究室長、北海道大学大学院教授などを経て現職。近著に『「大人の発達障害」をうまく生きる、うまく活かす』(共著、小学館新書、2014年)、『生活障害として診る発達障害臨床』(中山書店、2016年)、『支援から共生への道?』(慶應義塾大学出版会、2016年)ほか翻訳書など多数。

 
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