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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第9号(2007年2月)
 
 

「知識」と「ヒト」


 冒頭で触れたイスラエル訪問では、聴衆の中に世界中でビジネスを活発に行い、現在、日本での事業拡大を計画している聡明なビジネスマンがいらっしゃいました。この方は私がイスラエルを離れる日の早朝、所有するハイテク工場を私に案内しつつ、それが日本が誇るハイテク企業であるファナックの工場を模したもので、「日本の知恵」が遠く離れたイスラエルに如何に伝播したかを直接的かつ具体的に教えて下さいました。また講演会当日、最初にスピーチをして下さった在イスラエル日本大使館の鹿取克章大使は、講演会終了後、公邸でレセプションを開いて下さり、私は多くのイスラエル・ビジネスマンと一緒に美味しいお寿司に加えて、私には懐かしく感じる肉じゃが、そしてきしめんを頂戴して、グローバリゼーションの恩恵を初めてのイスラエルで満喫しておりました。そして、鹿取大使に御礼を申し上げると共に、私のイスラエルに対する「イメージ」が如何に脆弱な知識と誤った先入観によって形作られていたかを恥じ入りつつお伝えすると同時に、微力ながらイスラエルと日本、更には周辺アラブ諸国との交流にお役に立ちたい旨申し上げました。

 こうして私は昨年末、西洋と東洋が交錯する中近東のイスラエルで、西洋哲学の教えの一つ「汝自身を知れ/グノーティ・セアウトン(γν※θι σεαυτ※ν or gnothi seauton/nosce te ipsum/know thyself)」を痛感しておりました。以前、The Cambridge Gazetteの昨年4月号で、ケンブリッジを中心に様々な討論会・研究会に参加した経験を踏まえて、私が銘記する2つの訓戒を皆様にご紹介しました。すなわち、@「知ったかぶり」の恐ろしさ、そしてA「自分が理解していないことを知らないこと(所謂「無知の無知」)」の恐ろしさです。@の「知ったかぶり」をする人々に対しては慧眼の皆様なら容易に見破ることが可能で、問題無いでしょう。しかし、たとえ有能な皆様でも、Aの「無知の無知」に囚われた人々を相手にすると大変な苦労を強いられると思います。私は親しい友人と次のようなことを時折語り合っています―昔は「地球は丸い」と言ったり、地動説を唱えると苦労したが、今でも状況は大して変らない。例えば、善良かつ純情で、愛すべき人々である未開の原住民を相手に映画の『ジュラシック・パーク』や『スター・ウォーズ』を見せた後、それらの映画がフィクションだと説明するのは至難の業だろう、と。すなわち、自分が理解している「かのように」思い込んでいる人に新しい情報・知識を伝えようとしても、先入観や自惚れが障害となって知識が伝わらない危険性があります。

 このことは大変重要で、その原因が「ヒト」自身の問題であるだけに、如何にICTが発達しようとしまいと関係ありません。約百年前の1911年に森鴎外は海外の哲学書を出版と同時に読了しておりますし、同じく約百年前の1905年、レーダー技術が存在しなかった時代に、我が帝国連合艦隊は、哨戒艦艇の綿密なる配備によってレーダー網と同様の機能を果たす哨戒網を構築し、バルチック艦隊の早期発見に成功しました。そして有名な「天気晴朗ナレドモ波高シ」の電文を打電、時を置かずして直ちに出動します。翻って、約65年前の1941年、最新のレーダーを配備して我が帝国海軍艦上機の大編隊を探知したにもかかわらず、またその直前には哨戒中の米国海軍の駆逐艦が帝国海軍の特殊潜航艇を探知し、直ちに通報したにもかかわらず、真珠湾は眠ったまま、12月7日の朝を迎えることになります。こうして昔も今も、情報や知識は、「ヒト」がその有効性・重要性を理解しないと容易に伝達されません。すなわち、「志」が高く、特定の目的意識を持つ「ヒト」だけが「知識」の価値を理解でき、それを求めて努力する訳です。そうした「ヒト」も、日々の努力無しでは情報や知識の価値を見抜く力は養えません。皆様、こうして「知識」がたとえ既に存在したとしても、その価値を評価できる「ヒト」が存在しなければ、「知識」は存在しないのと同然であることがお分かり頂けたと思います。従いまして、「知識」を効率的に活用する社会とは、最初に「知識」の価値を評価できる「ヒト」造りを始める社会なのです。

 これに気付いた日本人の一人が西郷隆盛です。『西郷南洲遺訓』は、隆盛が「生きた学問(生学問)」を重視したことを伝えています。すなわち、隆盛は「此(これ)からは、武術許(ばか)りでは行けぬ、學問が必要だ。(しかも)學問は生きた學問でなくてはならぬ」と述べて、1869(明治2)年、5人の有能な若者を、「知行合一」を説く陽明学者の春日潜庵の下に遊学させます。隆盛は、『遺訓』の中で「聖賢の書を空しく讀むのみならば、譬へば人の劒術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出來ず。自分に得心出來ずば、萬一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也」と語っています。すなわち、剣術においては武士が他人の鍛錬を側で見ているだけでは、自分自身得心もいかず修得もできない。それでは万が一、いざ真剣勝負の立ち合いとなった時、逃げるしかないであろう。剣術と同様、学問も高い「志」を持たずに空しく読書をし、皮相的に学ぶのであれば、自分自身が納得できず、肝心な意思決定の時に学んだはずの知識は役に立たず、「知識戦略」無き意思決定(「知識」と「行動」の不整合)に流れてしまう、と。こう考えますと、小誌前号で私が申し上げた「知的サムライ集団」は、隆盛によって明治2年から既に提唱されている訳であります。

 「知的サムライ集団」構想を示した隆盛ですが、皆様ご承知の通り、それから10年も経たないうちに、隆盛は1877(明治10)年、隆盛を慕う武士達による軽挙妄動に巻き込まれ、西南戦争で自らの命を失います。歴史に関して素人の私ですが、明治2年に潜庵に学んだ隆盛の「知的サムライ集団」一期生5人はその時如何なる心境であっただろう、と独りで溜息をついております。確かに、人の命を奪う刀を持つ武士は、「知」と「情」とのバランスを保ちつつ行動してもらわなくては、周囲の人々は恐ろしくてたまりません。幕末・維新時、すなわち、未だ多くの武士が「知識」の重要性を十分認識しないまま刀を振り回していた頃、天誅の名の下に多くの優れた「知的サムライ」が命を奪われました。奇しくも隆盛が潜庵に有能な若人を託した明治2年、当時の戦略家の一人、横井小楠は、「愚かなサムライ集団」に暗殺されてしまいます。ご承知の通り、小楠は、アヘン戦争後、清朝中国の大学者である魏源が中国流の強兵策(夷の長技を師とし以て夷を制す/師夷長技以制夷)を提唱して著した『海國圖誌』等を学び、富国・強兵・士道の三論を説く『国是三論』を著した優れた戦略家でありました。優れた「知識」を具えるが故に、「無知なサムライ集団」に誤解され、妬まれ、疎まれた小楠の最期と、小楠を欠いた明治日本を考えますと、深い溜息だけが出てきます。不幸にも、世界情勢に暗く、自らを正しいと盲目的に思い込んだ「サムライ集団」の残党はその後も日本のなかに生き続け、皆様ご承知の通り、「5.15事件」、「2.26事件」を代表とする悲劇が昭和日本を襲います。The Cambridge Gazetteの一昨年6月号で紹介した吉田茂首相の名著『日本を決定した百年』の中に、1930年代、疲弊した日本経済社会における昭和の「サムライ集団」の一部を評した次の文章があります―「彼らは … 手段のいかんを問わず、この窮状を解決しなければならないと考えたように思われる。彼らは使命感にあふれていたが、しかし、世界の状況には暗かった」、と。吉田首相は、純情ではあるが「無知なサムライ集団」に対して動機には同情を示したものの、彼等の「知識戦略」無き意思決定(「知識」と「行動」の不整合)には厳しい判断を下しています。

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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