前回・前々回は、「福沢屋諭吉」の誕生に至る経緯をたどってみた。今回は、そのようにして誕生した「福沢屋諭吉」が当時の出版界において、実際にどのような活動を展開していったのか、特にその営業面を探ってみることにする。
そこで今回は、「福沢屋諭吉」誕生直後の明治2年12月25日付の柏木 蔵(かしわぎ そうぞう)宛福沢諭吉書簡の一部を読んでみよう。今から百年以上前の文章なので適宜現代風に改め、今回の主題と特に関係のない部分は省略した。興味のある方は、ぜひ出典(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 153〜154頁)をご覧いただきたい。
〔前略〕以前からお話ししていた『世界国尽』がようやく一・二日前に製本できましたので、取りあえず一部差し上げます。他に十部を売り物として発送しますので、よろしくお取り扱い願います。価格は次の通りでございます。
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定 |
価 |
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1両1歩 |
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10部以上 |
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1割引 |
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100部以上 |
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1割引半 |
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250部以上 |
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2割引 |
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500部以上 |
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2割引半 |
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1000部以上 |
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3割引 |
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なお、これ以上も部数が増すに従って価格を割り引きますし、下民教育の趣意次第によっては、格別のこともご相談いたしたく、ひたすらお取り引き願います。〔後略〕
商人「福沢屋諭吉」から顧客宛の書簡とはいえ、福沢の腰があまりにも低いことに驚かされる。この書簡からは、“大量購入割引制度”によって精力的に売り込みをはかる「福沢屋諭吉」の営業活動の様子が読み取れる。明治4(1871)年の新貨条例以前のことなので、貨幣の単位はまだ江戸時代の「両」や「歩(分)」が使用されている。ここでの目玉商品は、まさにできたてホヤホヤの『世界国尽』(せかいくにづくし)! これは、世界地理の概要を子供に理解させることを主眼とした福沢の著作である。調子の良い七五調で書き連ねた文章を暗誦することによって、世界地理の知識が自然と身につくように工夫がこらされている。さらには、その文章の文字が習字の手本にもなるという欲張りな企画! 全6冊で構成されていて、各巻の内容は次の通り。さて、それぞれの読み方は??
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巻之一 |
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亜細亜洲 |
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巻之二 |
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亜非利加洲 |
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巻之三 |
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欧羅巴洲 |
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巻之四 |
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北亜米利加洲 |
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巻之五 |
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南亜米利加洲、大洋洲 |
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巻之六 |
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附録 |
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正解は、順にアジア・アフリカ・ヨーロッパ・北アメリカ・南アメリカ…。
ちなみに、この『世界国尽』の定価は1両1歩と記されているが、明治2年10月
の東京における米価平均値段によると、金1両で上米9升となっている(朝倉治彦・稲村徹元『新装版 明治世相編年辞典』東京堂出版 1995年 30頁)。
この書簡の宛名の柏木 蔵は、文政7(1824)年伊豆韮山(にらやま)に生まれた。韮山代官江川太郎左衛門英竜邸の書生となり、嘉永7(1854)年に航海術を習得するため長崎へ派遣された。この嘉永7年は、たまたま福沢が蘭学修業のため長崎に赴いた年でもあり、おそらく両者は長崎の地において出会い、その後も親交が続いたのであろう。後に柏木は韮山反射炉や品川台場の築造に従事し、維新後も新政府の会計官権判事となった。しかし健康を害して、地元の韮山県(後に足柄県を経て現在の静岡県の一部)への出張を命じられ、韮山県判事を経て、この書簡の当時は韮山県大参事を務めていた。
福沢は長崎以来、自分よりも十歳ばかり年長の柏木に深い信頼を寄せていたことが、何通かの柏木宛福沢書簡(いずれも前掲『福沢諭吉書簡集 第一巻』所収)から読み取れる。新政府の中で開明的な地方官僚としての柏木に対する福沢の期待は、特に地方教育の面にあった。先の書簡の末尾をここでもう一度ご覧いただきたい。福沢は、「下民教育」のためなら『世界国尽』を一定の割引率とは別に、破格の値段で販売しても良いと言及している。「下民」(げみん・かみん)は、直訳すれば「下々の民」(しもじものたみ)であろうが、ここでは「一般の人々」としておこう。教育のためなら採算は度外視!という姿勢が、他の本屋とは一味違う「福沢屋諭吉」の真骨頂であり、「福沢屋諭吉」の営業活動は単に商品の著書を売り込むことにとどまらず、まさに近代日本の教育・啓蒙活動をも兼ね備えていたのである。
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