できあがってみると、ずいぶん大部な本になってしまった。だが、いたずらに分厚くしたわけではない。それには、本書全体を通してつらぬきたいと思った学問姿勢ゆえの必然性があった。
学知(理論)が生成される学問活動の土壌は、人びとの生命経験・生活経験・人生経験の土壌と地続きであり、研究という営みは、その「地続きの土壌」において実践的に検討されていくべきものであろう。そして学問主体たる研究者も、研究者である以前に生命経験・生活経験・人生経験を持ったひとりの生活者であることに変わりはない。その意味で、学知の最終判定人は、現実を生きている生活者である。
そういった学問姿勢をつらぬこうとするとき、社会調査も、そこから引き出されてくる知見の確からしさも、この「地続きの土壌」における人間相互のかかわり合い(相互的・社会的なコミュニケーションによる相互了解)としてしか成り立たない。本書が大部なものになってしまったのは、このかかわり合いのプロセスを開示し、読者に伝えていくことで、調査研究者(著者)・調査協力者(本書に登場した現代中年)・読者相互間の「地続きの土壌」におけるコミュニケーションを図るような構成を試みたからである。
その際、とくに心がけたことは、現状の概要や結果(知識や類型)だけを一足飛びにとりだすのではなく、それらが集積する人間存在の過程的な足跡(経験の積み重ね)をたどり、そこにいたる生の経験のプロセスを描き出していくことであった。調査協力者がどのように生きてきて、それが現在の考え方や生き方とどういうふうに関連しているのか。そのストーリーが、調査協力者と調査研究者との相互的・社会的ミュニケーション過程のなかで浮かび上がってくる。その生成過程を描出することが、本書にとっては決定的に重要なことであった。
なぜならば、そのプロセスの描出が調査協力者のライフストーリーの文脈(社会的位置づけ)を明確化するという意味を持ち、知見や解釈の妥当性や信頼性にかかわってくるからということももちろんあるが、なによりもそのプロセスを提示することで、本書の知見が読者の経験のストーリーの再構築(生成)へと開かれていくからである。だから、できるかぎり細部の息づかいを切り詰めないような記述を行なった。一方で全体性を見つめ概念化の作業を行ないながらも、他方で「魂は細部に宿る」という側面を殺したくなかったのである。
本書で提示されたライフストーリーは、三人の現代中年の自伝(biography)である。ただしそれは、対話しながら他者(調査研究者である私)の自伝が入り込んで、そこから新たなストーリーが生成されていくなかでつくられていった自伝である。その意味では、本書で生成された自伝は、研究対象者の自伝と研究者自身の自伝とのコラボレーションであり、さらにそれを追体験する読者の自伝もそこにコラボレートされ、新たな経験が触発されていくことを企図している。
調査協力者の経験のなかでの生成、調査研究者の経験のなかでの生成、調査協力者と調査研究者との相互作用経験のなかでの生成、それら三重の生成のらせんが、〈再帰的近代としての高齢化社会〉という歴史的社会的状況を背景に生み出され、さらにそこに読者の経験との相互作用のなかでの生成が交差していく。そのプロセスそれ自体が社会過程なのであり、相互行為過程たる研究実践のひとつの局面として社会生成の重要な回路ではないか、ということなのである。それは、K・ガーゲンの言う「研究の社会的実践性」であり、研究者自身も社会生成に参与しているメンバーであるという局面の作品化ということでもある。
ポストモダン思想の批判以降、人文社会科学の世界では、主体の解体、差異や言説のポリティクス、知の普遍性や客観性への懐疑、あるいは調査研究者の位置性の問題等々、認識論的・方法論的な議論が盛んになされてきた。けれども、そういった批評的な議論の多さに比べて、それを存在論的なレベルで具体的な「作品」としてトータルに提示する仕事、「地続きの土壌」に根ざしたところから「生き方」そのものを実践的に創りだしていこうとする仕事は、圧倒的に少ないように感じるのは私だけだろうか。研究(者)のリフレクシビティということについても、たんに論理的・認識論的な次元でのリフレクシビティだけではなく、「地続きの土壌」における「生き方」レベルでの、いわば〈実存的なリフレクシビティ〉が、いま問われているように思う。その意味では、研究対象者だけはなく、研究者自身も自分を語らねばなるまい。
かけ声だけの反省や告発は、もういい。それらを引き受けたうえで、試行錯誤しながら実際に生きてみることだ。本書が大部なものになったのは、拙いながらもそれを実践せんがためであった。
本書がめざしたのは、「実証」でも「懐疑」でもなく、〈実践的=参与的に交流する知〉による新たな了解・新たな経験の「生成」である。三人の現代中年との六年にわたる交流で、互いのエイジング経験をぶつけ合い、掘り下げていくなかで感ぜられ、生成されていったのは、生命経験・身体経験・生活経験が集積する磁場であり、ライフストーリー(個人誌・生活史)とバイオストーリー(生命誌・生命史)が交差する〈経験〉の地平であった。それは「個人・対・社会」の枠組みを超え出ていく経験的な場所=トポスであった。
そんなトポスへと私を誘ってくれた三人の調査協力者の方々との出会いは、たぐりよせる糸のようであり、「巡りあい」というものを感じずにはいられない出会いであった。 ・・・・・
[本書555頁から558頁途中まで抜粋]
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