あとがき
北村勝朗
(東北大学大学院教育情報学研究部教授)
本書は,わざ研究の先駆者である生田を中心とし,わざの伝承に関心をよせる7名の研究者が,それぞれの専門領域から「わざ言語」という切り口によって執筆した,新たな学びを問うものである。
「はじめに」の中で生田が示しているように,本書は前半を理論編としてそれぞれの研究者の視点から「わざ言語」の意義を論じ,後半は実践編として伝統芸能,スポーツ,看護の領域のわざ実践者との対談により,「わざ言語」の現場での在り様がリアリティをもって語られている。さらに,前半の理論編では,後半で語られるわざ言語の実際を分析対象として引用しつつ論ずるというユニークな構成となっている。
生田および北村を中心とした研究グループは,平成20年4月から23年3月までの3年間に渡り,文部科学省科学研究費補助金(基盤研究(B)研究代表者 生田久美子、研究分担者 北村勝朗)の助成を受けた。本書は,この研究助成によるプロジェクトを土台にしている。このプロジェクトでは,7回に渡って研究会を開催し,「わざ」の伝承場面を目にし,聞き,語り,そして問い続けてきた。そのひとつの成果としてまとめたものが本書である。3年間の研究会を以下に記す。
花柳小春(日本舞踊) |
「わざ」と「ことば」〜伝統芸能の「知」を探究する〜 |
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中村時蔵(歌舞伎) |
歌舞伎の「わざ」の継承とは何か〜「ことば」体験に注目して〜 |
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佐藤三昭(創作和太鼓) |
創作和太鼓における「わざ言語」の役割〜「しむけ」に注目して〜 |
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朝原宣治(陸上競技) |
己の感覚との対話 |
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紙屋克子(看護) |
看護の技と言語 |
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村上明美(看護) |
熟練助産師の「分娩介助」のわざ〜その人らしく「産む」・その人らしく「誕生」する〜 |
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結城匡啓(スピードスケート) |
選手と共有する「わざ」世界 |
本書で登場した「わざ言語」の姿は実に様々であった。今この瞬間に投げかけられた「わざ言語」を通して動きを学び感覚を共有することもあれば,わざ言語として書かれた文字を通して,師の芸や,かつての自身と対話し,時を隔てて感覚を共有することもあった。さらに,大切なレースの直前や助産の場に,共に同じ目標を目指してそこにいることで,互いの思考,情緒,意識,雰囲気,価値観,そして感覚を共有することもあった。このように「わざ言語」は,多様な文脈の中で,多様な学びの様態となって現れ,多様な作用を生み出し,その中で,教え学ぶ両者に大きな変化をもたらす,実に学びの契機を大量に含んだ「学びの触媒」のようなものなのである。
一方で,「わざ言語」は,単に言語形式によって区別されるものでもなく,文脈によって役割が変化することから,どこか捉えにくく,感覚的であいまいな印象をもたれるかもしれない。しかし,実はこのあいまいさこそが,「わざ言語」を捉える重要な視点なのであり,学びを捉える新たな視点でもある。なぜなら,あいまいさは,科学的な言語で説明することが困難でありながら,それを受けとめる文脈やひとによって,どこか気にかかる,あるもの全体を捉えさせてしまうものであり,Achievement状態に誘い,「わざ」を身にまとうに至る重要な視点と捉えられるからである。KJ法の考案者である川喜多二郎は,この「あいまいさ」を,どこか気にかかるという感覚で捉えられることの重要性に触れる中で取り上げ,次のように述べている。「ハプニング的に、しかも“気にかかる”というあいまいさで捉えられたデータを、今日の科学では全く不当にも無視し軽蔑してきた」(川喜多二郎,1970,『続・発想法』,講談社,30頁)。わざ言語を通した学びの本質も,まさにこうした「どこか気にかかる」感覚の積み重ねにあるのではないだろうか。
本書によって「わざ言語」の全てが解明され尽くしたとは思っていない。むしろ,新たな課題が見えてきたといった方が適切であろう。今後,更なる「わざ言語」そして「わざ」の研究を発展させていきたいと考えている。
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