はしがき
坂井達朗
(慶應義塾大学名誉教授)
ここに奥山春枝という一人の人物の生涯を紹介したのは、彼を成功者として顕彰したいと考えたからでも、またその生涯が特筆に値する価値を持っていたと評価したからでもない。人は誰しも他人とは違った背景を持ってこの世に生まれ、それぞれの個性を持って生きてゆくのであるから、特徴的でない人生というものは考えられない。また生きてゆくためには大きな努力をしなければならないことは万人皆同じであるから、その意味では何人の人生もそれぞれに貴重な価値を持っていることに違いはない。奥山がビル・ブローカーという、日本の金融業界にそれまでなかった新しいジャンルを開拓したパイオニアの一人であり、その意味で稀有な生涯を送ったことは疑いを容れないが、筆者がこの評伝を執筆したのは、そうした特徴や価値は別にして、時代的な環境を同じくして生きる人々の人生には、その時代に特有な共通性を示す何者かが存在する筈であると考えるからである。
本書は、明治の初年に東北地方の僻陬の地に生まれ、都会に出て勉強し、日本資本主義の勃興期に身を処した若者が、身につけた文明の知識を元手にやがてその担い手の一人に成長していった軌跡を辿ったものであるが、本書が目指したのは一人の実業人の人生をできるだけ克明に明らかにすることによって、彼と同時代を同様に生きた数多くの人々が集まって形成した、一つの時代の歴史的特徴を理解する手がかりを得ようとしたからである。「近代起業家の誕生とその生涯」という副題をつけたのは、一人の人間の生き方を通じてその時代を理解する材料となればという願いを込めてのことである。
筆者が奥山春枝の名を初めて耳にしたのは、今から数年以前、孫に当たられる奥山篤信氏が突然来訪、福沢諭吉の書幅一点を示され意見を求められた時であった。それが本書の口絵に紹介した七言絶句であった。学校に残っている卒業生に関する史料を調べてみると、入社帳や勤惰表は勿論、塾員名簿にも奥山春枝の名前は見えており、関西の実業界で活躍した人物であったことは容易に想像がついたが、それまでの慶應義塾の卒業生に関する研究にその名は全く登場していなかった。
丁度その頃「慶應義塾福沢研究センター」では福沢門下生の地方における活動を掘り起こす共同研究を行っており、たまたま筆者もその仲間の一人であり、その共同研究によって、それまでの義塾の歴史の研究が気がついていなかった何人かの卒業生の活動が明らかになってきていた時であった。そこで奥山家に残されている春枝関係の史料について相談を受けた筆者は、その整理と評伝の執筆とをお引き受けすることになった。本書が生まれるきっかけとなったのはその時の会談であった。
その後の数年間、筆者はひたすらこの人物に関する史料を読み、その六二年にわたる生涯を理解しようと努力してきた。彼の日記や彼への来簡に読み耽っていると、時として自分自身が奥山春枝になってしまったような錯覚を覚えることすらあった。就中学生時代の奥山が、親しい何人かの親しい友人と三日にあげず訪問し合い、語り合わないではいられなかった様子を知った時は、自分自身の学生時代の経験と重ね合わせて、まるで我が事のような気持になり、奥山が研究の対象であることを忘れるような感覚すら覚えたのであった。その意味では本書に現れた奥山像は、筆者の思い入れに傾きすぎている恐れなしとしないというのが書き終えた現在の正直な感想である。本論で史料、特に来簡は、できるだけ原文を掲げ、その後に筆者の解釈を述べるように努力したのは、読者と共通の体験を持つことによって、その弊を最小限度に止めたいという念願からである。お読み頂いて筆者の過剰な思い入れをお感じになられた場合には、ご指摘ご批判頂けば幸甚である。
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