本書を手にとった幸運な読者に向けて
伊藤秀史
一橋大学大学院商学研究科教授
まずは本書を手にとったあなたの幸運をたたえよう.本書は,著者オリバー・ハートが,オックスフォード大学での講義録をベースに,企業の境界と企業金融の分野への自身の先駆的な学術貢献を分かりやすく整理した名著である.
本書は2つのパートから構成されている.第I部「企業を理解する」のテーマは,企業と市場を分かつ境界とは何か,どのような取引を企業内で行い,どのような取引を市場で行うか,という問題である.第II部「金融構造を理解する」では,資金調達契約,破産手続き,株式の議決権などをどのように設計すべきかという問題を扱う.どちらも現実の企業にとって切実な問題である.たとえば前者は,分社化,持株会社,会社分割,選択と集中などの事業再編,後者はコーポレート・ガバナンス(企業統治)の設計と密接な関連がある.しかしまた,現代の経済学でも主要な研究課題として成果が蓄積され続けている,一筋縄ではいかない深遠な問題なのである.
なぜ「企業を理解する」ことは一筋縄ではいかないのか.標準的なミクロ経済学に登場する企業は,資本,労働力,原材料などさまざまなインプットを製品やサービスに技術的に変換して,アウトプットとして販売する.しかもこの企業は,常に最小費用・最大利潤を達成する非常に優秀な経営を行っているものとみなされている.このように単純化された企業像も,市場における複雑な資源配分の仕組みを分析するうえでは大変有効なものであった.しかし,その内部で経営者・従業員がどのように関与してインプットからアウトプットへの変換を行っているのかは,何も記述されていないブラック・ボックス企業である.そして市場は,多数の企業から構成される経済モデルと解釈することもできれば,多数の事業部・工場を所有・経営する1つの巨大な企業が存在する経済のモデルと解釈することも可能となり,企業の境界はまったく意味のないものとなってしまう.
標準的なミクロ経済学はまた,少数企業間の不完全競争,外部性,情報の非対称性など,市場がうまく機能することを妨げる要因についても,多くの分析を行ってきた.しかし「市場の失敗」によって直ちに企業の存在が正当化されるわけではない.市場の失敗を引き起こす要因の多くはまた,企業内においても組織の非効率性を生み出す要因となるためである.事業部間では顧客や資源をめぐる競争,業績格差の内部補助を起因とするただ乗り,シナジーのような外部性の問題が山積している.さらに組織の中で分業が進めば,組織全体で情報を共有することは容易ではない.市場の失敗の源泉は,また組織の失敗の源泉ともなるのである.
企業の「金融構造を理解する」ことも一筋縄ではいかない.モジリアニ=ミラー定理によって,ある条件の下では企業の資金調達と配当の決定は企業価値に影響を与えないことが知られている.この重要な定理の背景にも,標準的なミクロ経済学のブラック・ボックス企業像がある.そのような企業像の下では,企業の金融行動が企業価値に影響を与える余地はないのである.
現代の経済学は,以上のようなきわめて有益なしかし単純化された企業像から出発して,2つの方向で企業理論を拡張した.第1に,企業というブラック・ボックスを開けて,企業の内部組織のさまざまな特徴・機能を明らかにするという方向である.第II部と関連づければ,資本提供者や利害関係者(ステークホルダー)と,企業家や経営者との関係を詳しく分析することによって,企業家・経営者の規律づけの視点から,企業金融の重要性が新たに見えてくる.第2に,企業を消費者とともに市場に参加する意思決定主体と見なすだけではなく,企業を市場と対比させ,市場と同様にさまざまな人々の交わる場であるが市場とは異なるルールで機能する資源配分の仕組み,と考える方向である.この拡張は,コースの古典的論文によってもたらされたもので,第I部の企業の境界の分析の出発点となるものである.
以上の2つの方向での拡張は,組織の経済学と呼ばれる分野をも確立した.本書は組織の経済学の包括的な教科書ではないが,必読文献の1つであることに疑いの余地はない.また,2つの方向での発展過程において,情報の非対称性による市場の失敗,エージェンシー関係や取引関係におけるインセンティブ設計の問題を分析するための一群の分析ツールは「契約理論」という名称で手短によばれるようになり,ミクロ経済学の教科書や授業に取り入れられるようになっていった.本書は契約理論の包括的な教科書ではないが,「不完備契約の理論」と呼ばれる契約理論のサブフィールドの必読文献と位置づけられる.
企業の境界については,コースやウィリアムソンによる重要な先行研究が存在する.彼らは「取引費用」という概念に依拠して,関係特殊性や複雑性・不確実性の程度が高い取引の場合には,統合して取引を組織内に取り込むことで取引費用を節約できると論じた.しかし彼らのアプローチは,市場取引がそれほど困難ではない状況,すなわち関係特殊性が低い,複雑性・不確実性の程度が低いときに,なぜ組織よりも市場が望ましいのかを統一的に説明できなかった.ウィリアムソンはこの問題を,以下のような思考実験によって説明している.「買手のメーカーが売手の部品サプライヤーを垂直統合して,部品製造事業部にする.しかし,市場取引が効率的である限り,かつて独立なサプライヤーであったときと同様の取引関係を,内部化された部品製造部門と続ける.そして,市場取引が効率的でない状況が生じたならば,そしてそのときのみ,統合の利益を実現するために取引関係に介入する」.このような選択的介入が可能ならば,統合は市場取引が実現できることをすべて達成し,かつ統合の利益がある場合にはその利益をも得ることができるので,どのような取引も,内部化してしまうことによって悪くなることはない,という結論に導かれてしまう.
本書第I部の基礎となる,ハートがグロスマンやムーアと展開した理論は,上記の問題点を克服して統合の便益と費用をはじめて統一的に説明することに成功した.彼らの理論の鍵となるのは,完全な契約を書くことができないという「契約の不完備性」と,その前提の下で,資産を所有することによって獲得する権利である「残余コントロール権(序章ではパワーと呼んでいる)」という2つの概念である.
折しもこの翻訳書が出版される前年の2009年に,ウィリアムソンが企業の境界の分析でノーベル経済学賞を受賞した.本書およびその基礎となる研究が,ウィリアムソンの受賞を後押ししたことは間違いない.実際,本書で登場する概念の多くは,ウィリアムソンらの先行研究に依拠しており,一見両者は類似の理論に見える.ハートらの理論に対する反応として,「ウィリアムソンの理論を定式化したにすぎない」という評価と,「ついにウィリアムソンの理論が定式化された」という正反対の評価とが共存するほどである.しかし,両者の理論の間には実は重要な相違があることが明らかになりつつある.ハート自身も,現在では本書で整理した理論を再検討して,コースやウィリアムソンの理論に立ち返り,新たな理論を模索している.企業の境界は決着がついた研究テーマではなく,今なお現在進行形なのである.
第II部の企業金融についても同様である.「契約の不完備性」と「残余コントロール権」は,企業の金融構造を理解するためにも鍵となる.たとえば負債契約では,企業の経営状態に依存して,経営コントロール権が経営者と債権者の間で移転するという特徴を持つ.この見方は日本のメインバンク制や世界金融危機の理解にも重要な役割を演じた.今日「契約の不完備性」に基づく企業金融の研究は,ビジネススクールに属する研究者を中心に活発に行われており,こちらもまた,現在進行形と言える.
詳細は本書を読んでのお楽しみとしておくことにして,最後に,さらなる勉強のために参考文献をいくつか紹介しておこう.柳川(2000)は,本書の内容をさらに分かりやすく説明した入門書である.組織の経済学と企業の境界については,伊藤(2010a,b)をあげておこう.本書の次に企業金融の本を勉強するならば,大部だがTirole (2006) に挑戦してほしい.
文 献
Tirole, J. (2006). The Theory of Corporate Finance, Princeton: Princeton University Press.
伊藤秀史(2010a).「組織の経済学」中林真幸・石黒真吾(編)『比較制度分析・入門』有斐閣,
所収(2010年出版予定).
――――(2010b).「契約の経済理論(発展)」中林真幸・石黒真吾(編)『比較制度分析・入門』
有斐閣,所収(2010年出版予定).
柳川範之(2000).『契約と組織の経済学』東洋経済新報社.
詳細はこちらをご覧ください。
『企業 契約 金融構造』(オリバー・ハート 著、鳥居 昭夫 訳)
|