『グーテンベルクからグーグルへ』訳者による特別寄稿
明星 聖子(埼玉大学教養学部准教授)
これは悲しい予言の書です。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。著者シリングスバーグは明らかにそう語っています。
いや、そんなことはありえない。仮想空間に浮かぶ幻影を相手にして、研究などできるはずがない。大半の方は、おそらくとっさにそう反論したくなることでしょう。
でも、本当にそう言い切れるのでしょうか。例えば、目の前のディスプレイに、ある作家の小説の草稿画像が表示されているとします。同時に、机の上には、活字の本になったその小説の一頁が開かれている。では、研究者が研究のために活用するのは、いったいどちらでしょう。
「オリジナルにあたれ」という言葉を、研究の場でよく耳にします。しかし、このオリジナルとは何でしょうか。例えば、いまの場合、よりオリジナルに近いのはどちらでしょう。編集者が介在して、活字コード化されて整えられた「作品」の載る実物の本でしょうか。それとも、作家の「書く」行為の生々しい痕跡である手書き草稿をそのまま再現したディスプレイ上の画像でしょうか。
もちろん、いや「本物」のオリジナルと呼んでいいのは、そのどちらでもない、この世に唯一無二のモノとして存在する草稿の紙そのものだと主張することもできるでしょう。
しかし、そこまでいってしまったとたん、文学研究という制度は一気に難しいところに押し込められてしまいます。はたして、そこまでの「本物」を対象にすることが、文学研究だったのでしょうか。
資料の問題というのは、お気づきのとおり、学術研究の制度の根幹に関わります。どの資料であれば信頼がおけるのかという問題は、資料に基づいて論を組み立てていく研究そのものの信頼性に直結しているのです。そして、デジタルの時代における資料の信頼性の問題は、文学研究のみならず、いわゆる人文学の広い領域にあてはまります。
少なくとも、私が属する文学研究の分野では、管見ではありますが、この種の議論はこれまであまり表立ってはおこなわれてきませんでした。いうなれば、そのあたりの了解は、あうんの呼吸で成り立ってきていました。
あらゆる書物のデジタル化が進むなか、いやおうなく白日の下にさらされていくのは、おそらくその部分です。そして、それは情報テクノロジーの急速な発展が、いつしか無限ともいえる量の画像データを、生産、蓄積、流通可能にしたことと深く関係しています。たしかに、ディスプレイ上に浮かぶ画像は、リアルなモノとしての存在ではありませんが、しかし、リアルなモノとして存在する何かをきわめて忠実に再現しているものだとはいえるのです。
(最近大きな話題となっているグーグル・ブックサーチに関しても、それが画像データを提供しているという点はもっと着目されてしかるべきように思います。)
この文章の最初で、私は「悲しい」という形容詞を使いました。これは、あくまで私の主観的な感慨を漏らした言葉であって、本書はけっして未来を悲観的に描いているものではありません。むしろ、非常に複雑で困難な課題に果敢に挑戦して、なんとか希望に満ちた明るい未来へ到達しようと呼びかけるものです。
それが実現可能であるかどうかはともかくとして、私たちが、この複雑で困難な問題と、早晩直面しなければならないことは確実でしょう。それがいかに困難で複雑なものであるのか。いずれの取り組みも、まずはその認識から、スタートしていくべきように思います。本書はそれを十全に伝えています。 |