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巻頭随筆

「がい」を「害」としよう   徳永 豊

 

 大学の「特別支援教育」の講義で、「障がい」ではなく「障害」と記載しよう、と学生に話をしています。福岡市を含め、数多くの自治体が「障がい」としていて、それに違和感を持ちつつ、この数年で、やっと積極的な意味を込めて、「害」とすることを決心しました。

 「障害」でも「障がい」でも、どちらでもかまわない、面倒な議論だ、と考える方もいるでしょう。また、見ることや動くことに不自由さのある人が、周囲の人々にとっての「妨げ」になるわけでなく、マイナスなイメージはよくないので、「がい」であるという意見にも納得するところです。

 「がい」を「害」にしよう、そして、なぜ「害」なのか。このことについて、子どもと一緒に考えることが、共生社会を目指す日本にとって、また、ユニバーサル都市を目指す福岡市にとって、大きな発想の転換につながるのではないかと期待しています。

 なぜ「害」なのでしょうか。

 まず、誰にとっての「害」なのか、があります。これは、障害のある本人にとっての「害」であり、見ることや動くことに不自由さのある本人が感じる「妨げ」であり、「差し障り」です。それでは、この「妨げ」や「差し障り」は、どうして生じるのでしょうか。

 要因のひとつに、確かに、見ることや動くことの低下、つまり機能の低下があります。でも、この機能の低下は医療で改善するかといえば、それほど期待できません。

 他にはどのような要因があるのでしょうか。もう一つの大きな要因に、見ることや動くことに問題がない人だけが便利なようにデザインされた「この社会」があります。また、その便利さから恩恵を得て、それを当たり前だと考えている「私たち」が大きな要因と考えられます。

 そして、機能の低下はなかなか改善が難しいけれど、この社会や私たちであれば、変わることは可能です。障害がある本人が感じる「妨げ」や「差し障り」が、わずかでも少なくなるように、この社会や私たちが変わることが大切になります。そのような視点や意識を持ち続けるために、あえて「がい」ではなく「害」と書こうと、学生に話しているわけです。

 このような障害のとらえ方は「社会モデル」の考え方と言われます。障害、つまり制限は、機能の低下ではなく、社会におけるさまざまな要因の絡み合いで生じる、という考えです。そして、感じる「妨げ」や「差し障り」について、本人が少なくしたいとの意思表明があった場合に、可能な範囲で、必要とされる方策が「合理的配慮」になります。初めての街を散策する目の不自由な人のためのガイドヘルパーであったり、大学の授業でノートが取れない肢体不自由の学生のためのパソコン使用だったりします。

 この「社会モデル」だけが正しいわけではなく、病気を治療したり、機能回復をめざす「医療モデル」も大切になります。多様な視点で、「妨げ」や「差し障り」を考え議論し、「害」を少なくするために、私たちにできることを追い求めるためにも、決意をもって「害」としましょう。



 
執筆者紹介
徳永 豊(とくなが・ゆたか)

福岡大学人文学部教育・臨床心理学科教授。臨床心理士。専門は特別支援教育、発達臨床。九州大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。国立特別支援教育総合研究所企画部総括研究員などを経て現職。
著書に『肢体不自由教育の基本とその展開』(共編著、慶應義塾大学出版会、二〇〇七年)、『重度・重複障害児の対人相互交渉における共同注意』(同、二〇〇九年)、『障害の重い子どもの目標設定ガイド』(編著、同、二〇一四年)、『新  重複障害教育実践ハンドブック』(共著、全国心身障害児福祉財団、二〇一五年)など。

 
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