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巻頭随筆

誤った認知の心理――なぜ差別につながるのか   池上知子

 

 2017年の3月、ある動画がインターネットで大変話題になりました。韓国の大学で国際政治学を教えているロバート・ケリー氏が自宅でBBCテレビの生中継による取材を受けている最中に、二人の幼い子どもが突然部屋に入ってくるというハプニングに見舞われ、彼の妻があわてて子どもたちを連れ出す様子が放映されてしまったのです。とても微笑ましい光景であったため、この動画は大勢の人々によって繰り返し再生されたのですが、なぜか妻のキム・ジュンアさんのことを乳母だと思い込んだ人が多数いたことがわかり、これには人種的偏見が関係しているのではないかと論議が起こりました。白人男性とアジア人女性のカップルを夫と妻ではなく、雇い主と使用人とみなしていたことがうかがえるからです。この思い違いの原因が、本当にアジア人女性に対する偏見に基づくものであったかは厳密には検証されていませんが、これに類するエピソードは枚挙にいとまがないのも事実でしょう。

 

 社会心理学は、人種や性別、職業など、特定の社会的属性を持つ集団に対する誤解や思い込みを「ステレオタイプ」と称し、その内容には社会の階層構造や差別的制度を正当化する要素が含まれていることを指摘しています。そしてそのようなステレオタイプが人々の意図や意志を超えて思考や行動に深く影響することによって、あからさまな敵意や悪意がない場合でも、結果的に差別の助長に加担してしまうことを示してきました。私たちが、自分より弱い立場にある人たちに向けるまなざしには、常にこうしたステレオタイプがつきまとうことを知っておく必要があるかもしれません。

 

 もうひとつ、差別的言動の誘因となる、私たちが犯しやすい認識や判断の誤りについて述べておきたいと思います。発達心理学者のピアジェは、「3つの山課題」を用いて、幼児期の子どもにみられる「自己中心性」について明らかにしました。この課題では、色や高さの異なる3つの山の立体模型を用意し、見る方向が異なると見え方が変わることを子どもに確認させたうえで、自分と異なる位置に立っているほかの者にどのように山が見えているかを尋ねます。すると、この時期の子どもは自他の区別がつかず、自分に見えているように他者にも見えていると思っていることがわかりました。他者が自分とは異なる「心」を持つことを理解することが容易でないのは、子どもに限ったことではありません。大人も自己中心性からなかなか脱却できずにいることは、多くの研究によって示されています。

 

 2016年の12月のことですが、日本教育心理学会主催の「発達障がいにどう向き合うか」と題する公開シンポジウムに参加した際にうかがった話も非常に示唆に富むものでした。一般的な知的能力には異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに関してのみ大変困難を覚えるディスレクシアという障害があります。この障害をもつ登壇者の方が、文字の並びから単語を抽出するという、障害のない者にとってはごくたやすい作業に想像を超える苦労をしていることを周囲に理解してもらえない辛さについて語っておられました。他者の心を推量する際に自分の心を参照する仕組みは、人間に備わっている基本的な心的機構ではあるのですが、これが時として社会的弱者を深く傷つける場合のあることを知っておく必要もあるかもしれません。



 
執筆者紹介
池上知子(いけがみ・ともこ)

大阪市立大学大学院文学研究科人間行動学専攻教授。博士(教育学)。専門は社会心理学。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程学修認定退学。愛知教育大学教育学部助教授、同教授を経て現職。著書に『社会的認知の心理学』(共著、ナカニシヤ出版、2001年)、『グラフィック社会心理学〈第2版〉』(共著、サイエンス社、2008年)、『よくわかる心理学』(共編著、ミネルヴァ書房、2009年)、『格差と序列の心理学』(ミネルヴァ書房、2012年)など。

 
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