▼おそく帰るや歯磨きコップに子の土筆 和知喜八
土手や畦道を歩きながら土筆を探すのが愉しい季節となりました。子が寝静まった夜更けに帰宅し洗面所でくたびれた顔を洗います。アニメのキャラクターが描かれたプラスチックのコップに土筆が数本さされています。作者は、あどけない子の寝顔を眺めてほほ笑むのでしょうか。それとも、生活のためとはいえ、仕事の忙しさを理由に子と過ごす時間の少なさに嘆息するのでしょうか。人生で子と一緒に過ごす時間は思ったよりも短いと
言われますが、その時間の大切さを子の巣立ちの後で気づくことが多いようです。
▼子のたちしあとの淋しさ土筆摘む 杉田久女
「花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ」、「谺して山ほととぎすほしいまゝ」等、絢爛たる作品を創作した久女ですが、長女、次女が家を離れたことによって大きな虚脱感を抱えていたようです。それを紛らわすように土筆を摘んだとしても、昔のように他愛ないおしゃべりをしながら一緒に袴をとる子どもはいません。土筆の卵とじを頬張った子どもたちはそれぞれの生活を送っているのです。
▼子離れや土筆のはかま陽に焦げて 岩淵喜代子
摘みごろの時期を過ぎてしまい、日焼けして煤けたような袴から、子離れを実感したということでしょうか。卒業式や一人暮らしの準備などの行事よりも、このような何気ない日常のなかで親は子離れの淋しさを実感するのかもしれません。
▼肢体不自由児への動作法で「離すよ」という言葉かけがあります。セラピストがしっかりと支えて、子どもにまっすぐの姿勢をとらせます。子どもはその姿勢でまっすぐに立つ(坐る)という感覚、身体の各部位の位置関係を学びます。
セラピストは「離すよ」と言いながら、実際には支えを離さずに援助の力加減を少し弱めます。そこで、子どもたちはその姿勢を維持しようとする力が引き出され、姿勢を保つ力の入れ方、踏ん張る要領を覚えます。つまり、自立の援助とは「さあ、立ちなさい」と一からすべてを子どものやる気に任せてしまうのではなく、一気に支えをなくして失敗経験を重ねさせることでもないのでしょう。
▼第一特集は「親と子ども――それぞれの自立」です。子の自立は親離れとして捉えられ、それが停滞するとき、その理由には子離れの難しさが論じられました。心理臨床の現場には世代間連鎖の考え方が持ち込まれ、親の子離れの難しさの背景には、その親の親への執着やわだかまりがあり、それも親離れの難しさとして論じられることが多いように思います。
「自立する」が「離れる」と同義ならば、久女や喜代子の句で吐露された親の淋しさや虚脱感はどうしようもなく、親はその感情に耐えるしかないのかと悲観的になります。しかし、巻頭言の鯨岡先生のお言葉にあるように、親と子の関係の発達と考えるのならば、どのような関係を築いていこうかと前向きに捉えることができるのではないでしょうか。
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