▼ここ最近、大学での講義や演習をしながら感じたことをあらためて振り返ってみると、スマホと学生の関係性が「学習」に関わる状況を変化させてきているのではないかということに気づきます。学生たちは分からないことに直面するとすぐさまスマホを取り出して検索していますし、その姿を見ても教員である私自身がもはや何も驚かなくなっています。おそらくほんの数年前までであれば、「携帯をいじってメールしてるな」と疑ったり、「お手軽にウィキで検索してそれらしく理解しているな」と訝しんだりしていたのですが、現在ではもはや授業をしている教員にも、スマホを使う学生にも、そういった疑いを差し挟む余地は極端に薄まってきているようです。
▼そういった日常をあらためて振り返ったところ、あることに気づきました。それは、講義に集中できない学生よりも、むしろ真面目な学生こそが積極的にスマホで検索をしているということです。その様子を記述するなら、講義や演習の中で私が思想家の名前を紹介したり、新しい概念を示したりしたとき、彼らは相当なスピードで検索し、少しするとどこか満足したような表情で顔を上げて再び授業に「戻ってくる」というようなことが日々生じています。この意味では、分からないことはノートに書き留めて講義の後で図書館に行ったり、質問して先生に聞いたりするのではなく、手元の端末で別の「世界」へとアクセスし、そこで「教えてもらう」ことが可能になったとさえ言えるでしょう。
▼こうした状況は、フランスの思想家リオタールによるエポックメイキングな著作である『ポスト・モダンの条件』(和訳は水声社、1986年)によって、1970年代にすでに示されていました。彼は同書の中で、情報技術の進化によって知の外部化が生じることで、「知の修得が精神の形成、さらには人格の形成と不可分であるという古い原理は、すでに、そして今後は一層、衰退し、顧みられなくなるだろう」と述べていました。そして、数十年の月日を経たサイバースペースの広がりによって、私たちが何かを記憶し、学習することの意味そのものが根本的に変化してきたと考えられます。もはや人間は、頭脳という不安定な記憶装置に頼って精神の形成を試みることもなく、外部化された「世界」を検索することで知を操ることができるようになりました。
▼しかしながら、スマホの画面上に瞬時に「一覧」として網羅される情報を知として扱ってしまうとき、私たちは知への渇望感を奪われている気がしてなりません。分かることしか求めない、分からないことは検索し解にダイレクトにアクセスする、分からなかったことは無かったことになる。そんな状況はやはり悲しいなと感じています。
えも言われぬ思いや、理解したいけどそう簡単ではない難解な思想と闘うという感覚と、不器用に付き合うということがもう少しあってもよいのではないでしょうか。それはさながら、「問いと共に生きる」という学問そのもののあり方です。学生たちにも「問い」を捨てない作法を習得してほしいなと、切に願っています。
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