▼スポーツと根性は、密接につながっているように思う。私も中学時代、野球部に所属し、ずいぶんと厳しいしごきに耐えたものである。炎天下で水を飲むことも許されないまま長時間ノックを受けたり、練習中に誰かひとりでもミスすると全員でベース一周のウサギ跳びをやったりと、いくらでも例を挙げられるほどだ。
▼四十年以上も前のことではあるが、そうしたしごきを我慢して練習を続けることで忍耐力がつくので、それは良いことなのだという考え方が、当時は広く社会に受け入れられていたように思う。教室でも、教師からげんこつで叩かれることなど日常茶飯事であった。気になるのは、しごきやしつけを容認する社会的価値観が、今も連綿と継承されているように思えることである。
▼しごきやしつけなど、上位者、年長者あるいは強い者が、下位者、幼い者・弱い者に対して、身体的、精神的暴力を伴う教育を行うことの弊害について、日本はあまりにも鈍感だったのではなかろうか。しごきに耐えられずに競技を断念した人も少なからずいたはずで、その中には、競技を続けていれば一流のアスリートに成長した人も含まれていることだろう。あるいは、しつけと称する虐待によって、幸福であるべき人生を台無しにされてしまった人も数多くいるであろう。
▼つい最近(二〇一九年二月七日)、親などから虐待を受けた疑いがあるとして、全国の警察が昨年に児童相談所に通告した一八歳未満の子どもは八万一〇四人に上ったと警察庁が発表した。二〇〇四年から一四年連続の増加で、とうとう八万人を超えてしまったという。今、この瞬間にも、辛苦な虐待に悲痛な思いで耐えている子どもが、近くのどこかにいるという現実と向き合うとき、しつけという名の暴力を伴う押しつけの教育の持つ意味について、今一度、深く考えてみる必要があると思われる。
▼暴力を伴うしごきやしつけの容認は、目下の者を教育するときにはある程度の暴力は許されるというメッセージを子どもたちに伝えるだけのことなのではないのか。これは、子どもの虐待やいじめが深刻化する問題の解決策を検討する時の、大切な視点だろう。
▼幸福度と幸福感は必ずしも一致しない。経済的な基準で評価できる幸福度に対して、幸福感は主観によって決まる。日本では貧困率に苦しむ子どもの比率が高いことが指摘されていて、経済的な支援が急務であることは間違いない。しかし、経済的に恵まれさえすれば幸福感を高く感じられると安易に結論づけるべきではないだろう。
▼夏目漱石が『草枕』で描いたように「とかく人の世は住みにくい」のが現実である。その現実を生き抜くために、漱石は、心を豊かにする芸術が優れた働きをすると説いた。だれもが、自分の好きなスポーツや芸術を楽しみ、笑顔で過ごせる日々を送ることができるように、子どもでも大人でも、互いに敬意を払うことを大切にする社会へと成熟させていきたいものだ。
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