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目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」-専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第11回 交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(1)―

前々回、前回では交詢社設立の中心人物の1人として小幡篤次郎をとりあげた。交詢社1周年における彼の演説からは、設立目的が人々の「結合」にあったこと、「結社の本源が政党」にあると考えられていたことが分かり、また彼がこのような考えを持つに至った背景には、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』があったことを述べた。

馬場辰猪

そこで、今回はもう1人の中心人物である馬場辰猪の紹介を試みたい。連載第4回で述べたように、馬場は交詢社の社則立案委員、副規則立案委員として設立構想に参画し、発会から明治19年の第7回大会まで常議員をつとめた人物で、学識の高さ、結社立ち上げの経験において交詢社の創立に関与した人物たちの中でも、群を抜く存在感を示す人物である。特に結社設立の経験とその経緯において交詢社構想と重なる部分があったように思われる。

★福沢諭吉、小幡篤次郎と馬場辰猪―「気品の泉源、智徳の模範」

明治29年11月1日、63歳の福沢諭吉は慶応義塾を先導してきた者たちの同窓会の席上で、「慶応義塾は学塾に甘んずることを得ず」と説いた。草創期のように、今後も日本国中の「気品の泉源」として活気あふれ、「智徳の模範」となるような社会の先導者たるべし、というのである。「遺言のごとく託す」ように述べたこの言葉は、その翌日にも福沢の口から繰り返し発せられた。その日は馬場辰猪8周忌の日であった。

福沢が涙を払いつつ記したという追弔の詞は次のようなものである。君(馬場―筆者注)は天下の人才であり、その期するところも大きなものであったが、我々が特に忘れられないのはその「気風品格の高尚なる」ことであった。君の肉体は既に逝ってしまったが、生前の気品は忘れることのできないところであって、「百年の後、尚ほ他の亀鑑(模範)たり」。同窓会での演説と併せてみると、福沢は馬場を後世の人々、特に慶応義塾の人々の手本にふさわしい人物として考えていたことがわかる。

そしてこれから時を遡ること22年あまりの明治7年10月12日、福沢はイギリス留学中の馬場に向けて次のような書簡も送っており、それは次のような言葉で結ばれている。「あくまで御勉強の上、御帰国、我がネーションのデスチニー(筆者註―国運)を担当してほしい」などと福沢がいうほど、彼は馬場に目をかけていた。草創期慶応義塾の塾生のなかでも、これほど期待された人物はいないのではないだろうか。馬場は留学先のイギリスで日本人学生の親睦団体である日本学生会を結成し、帰国後は共存同衆という結社に参加、さらには交詢社の設立にも参画するなど、福沢の期待に違わない活躍をみせる。さらには自由党の中心人物となり、政治的立場において福沢と袂を分かつこととなるのだが、それは少し後のことである。

馬場という人の生い立ちを見てみると、彼は嘉永3年(1850年)、土佐の上士の家に生まれた。福沢よりも16歳、小幡よりも8歳の年少である。17歳のとき、藩の留学生となって江戸に出た際、福沢の塾で学んだ。その後、7年に及ぶ2度の英国留学ではローマ法や財産法を学んだ。『馬場辰猪自伝』によると福沢塾時代、塾頭だった小幡が彼に目をかけ、懇切丁寧な指導を施してくれたおかげで、学業が進歩したといっている。福沢、小幡、馬場の3人は通常の教師と学生の関係以上に親密な絆があったように思われる。福沢、小幡の2人は「眉目秀英紅顔の美少年」(福沢諭吉「馬場達猪君追弔詞」)であったのみならず、思慮深く高潔な気品をまとった馬場に大きな期待をかけたのだろう。

3人の関係は注目に値するが、福沢、小幡の2人の師と馬場には大きな違いがあった。留学経験である。福沢と小幡は海外視察に出かけたことはあっても、海外に何年も住み、日常生活を送る経験を終生持たなかった。師が持たなかった経験を基にして馬場の思想は形成された。結社という視点から彼の留学経験が重要となるので、まずは彼のイギリス時代からふりかえってみたい。

★社会科学協会と日本学生会

先にも述べたように、馬場は明治3年から7年にかけて、さらには明治8年から11年にかけてイギリスに留学を経験している。当初は土佐藩の藩費留学生として海軍機関学を学ぶ予定であったが、英語の力が身につき、様々な分野の洋書を読むことができるようになるにしたがって彼の関心も広がり、政治や法律を学びたいと願うようになっていた。明治5年に岩倉使節団がロンドンに滞在した折、政府留学生として法律を学ぶ許可を得る。主にテンプル法学院で特にローマ法と財産法を学びつつも、彼の活動は学校での勉強に留まらなかった。社会科学協会(The Social Science Association)という結社にも出席をし、様々な人々の講演を聴いた。

この社会科学協会は、社会上の諸問題を専門家の独占に任しておくのではなく、討論によって広く社会一般の人々に共有されることを目指した啓蒙団体であり、政治家、法律家、実業家、教育家、医者といった専門家自身たちによって構成されていた。「立法・法改正部会」「教育部会」「社会経済部会」といったテーマごとの部会組織が存在し、議論がなされていた。それは当時の立法への批判的提言ともなり、大きな影響を与えるほどのものであったという。この協会の開かれた性格は、女性の参加を推進したこともさることながら、馬場をはじめとする東洋の国から来た留学生にも参加を認めたこと自体からも分かる。馬場の自伝によると彼はこの協会へ出席するうちに言論の自由が国民生活に有益であることに気づき、在ロンドンの日本人学生同士で同様の会を設けることにしたという。

当時のロンドンには日本人留学生が100名ほど居たらしい。東京都知事を務めた美濃部亮吉の祖父で数学者の菊池大麓もその1人である。日本人留学生同士が街中で顔を合わせた場合、本来ならば手を握り合い、互の身上などを尋ねあう場面になるはずであるのに、挨拶もなく通りすぎている現実に馬場は違和感を覚えた。現代ならば、留学先で日本人同士仲良くしすぎると語学力がつかない云々という話も聞くが、同じ留学でも当時は現代とは事情が大きく異なっていた。

初めて接する異なる文明とその学問、なじみのない文化や風俗の中での生活など明治時代の留学生が直面した精神的に厳しい状況は、馬場が留学仲間について語っていたように、「個々人の能力にとって難しすぎる教育を受けるために、欧州へなど留学させられなかったら、日本で幸福な生涯を送ることができた」ような人々から、アメリカの地で精神を患って夭折した慶応義塾の小幡甚三郎(小幡篤次郎の実弟)、馬場自身といった俊英の人物にまで共通する苦しみであった。そうした精神的な孤立に苦しんでいるはずの日本人留学生たちが、なぜ街角でそしらぬ顔をしあうのか、馬場の答えはこうであった。彼らには封建時代の強い感情が残っていて、日本人というよりも様々な大名に支配されている様々な国の侍にすぎない。さらには、「薩摩の学生を見ると腹が立つ」というのが口癖だった同郷の学生の言葉から、同世代の青年たちに、同藩の人物でなければ敵としてみなそうとする内向的で狭小な考えがあることを認め、これにひどく反発を覚えたようだった。

明治6年9月、こうした留学生たちの現状を変えようとして馬場が小野梓らと共につくったのが日本学生会であった。小野は法制官僚として活躍した後、立憲改進党の主導者となり、また東京専門学校(早稲田大学の前身)の設立者の一人ともなった実務家、そして思想家でもあった人物だが、当時は大蔵省の留学生としてイギリスに滞在していた。日本学生会は前述の社会科学協会をモデルとして、日本人留学生間の親睦、相互扶助をはかることを目的としており、参加した可能性のある留学生はおよそ40人弱であった。留学生同士の懇親の場というに留まらず、社会科学協会にならって各自の専門、関心のあるテーマについての報告、発表をしたらしい。

例えば、明治9年にロンドンに到着した南条文雄(真宗大谷派の学僧。後、帝国学士会員、大谷大学学長)によれば、毎月1回例会があり、各自の研究発表をしたという。報告の体裁はというと、まず練習のために英語で報告し、再度日本語で講演をするというものだったという。南条は仏教教理について報告したと記している。馬場はこの日本学生会を通じて他の留学生をイギリス社交界へ紹介する国際交流の架け橋も努めた。こうした日本学生会の経験は、小野梓をはじめ帰国した人々によって日本で活かされることになる。それが共存同衆という結社であった。共存同衆に参加したメンバーのうち、馬場辰猪、小野梓、菊池大麓(東京大学教授)、岩崎小二郎(大蔵省少書記官)の4人が交詢社発会時に常議員となる。共存同衆と馬場辰猪、交詢社との関連については次回に。

【参考文献】

・福沢諭吉「気品の泉源、智徳の模範」(『福沢諭吉全集』第15巻)、「馬場辰猪君追弔詞」(『馬場辰猪全集』第4巻、岩波書店、1988)

・馬場辰猪については
  馬場辰猪『馬場辰猪自伝』(『馬場辰猪全集』第3巻、岩波書店、1988年)  竹田行之「志操山の如く」(『福沢手帖』54号、福沢諭吉協会、1987年)「「百年の後尚ほ他の亀鑑たり」考」(『福沢手帖』90号、福沢諭吉協会、1997年)
・馬場辰猪に関する伝記としては
  萩原延壽『馬場辰猪』(『萩原延壽集1 馬場辰猪』、朝日新聞社、2007年)
・日本学生会、社会科学協会については
 

「日本学生会名簿」(『馬場辰猪全集』第4巻、岩波書店、1988年) 南条文雄『懐旧録』(平凡社、東洋文庫、1979年)

   
  宮村治雄「馬場辰猪における「社会」の原像」(『開国経験の思想史』、東京大学出版会、1996年)
   
  井上琢智「日本学生会、共存同衆、イギリス社会科学振興協会」(『馬場辰猪全集』月報1、1987年)、「明六社・日本学士院と共存同衆・交詢社」(『近代日本研究』22号、慶応義塾福沢研究センター、2006年)、『黎明期日本の経済思想―イギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化―』(日本評論社、2006年)、第Ⅰ部
   
   
 
 
 
 
 
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