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目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」−専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第5回 「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせむしじゅん)の登場

前回みたように、交詢社の発端は明治12年7月の同窓会案にあった。規則草案作成まで進んだのち、9月2日直前になって文字通りの交詢社構想へと進展をみた。この時期、小川武平の自立社、林金兵衛の自力社(福沢諭吉の助言では自存社。以下、交詢社設立期の林の結社構想は自存社と記す)という「自」を冠した2つの地域結社構想が福沢のまわりに存在していた。前回、林金兵衛宛福沢書簡中の1文「様々に談話論説のその間には、自ら名案これあるべく」にある「自ら」という部分を「みずから」と読んだ。これを「おのずから」と読み、「様々に談話論説すれば自然に名案が浮かんで」と読むこともできる。ここで、筆者があえて「みずから」と読んだのには理由がある。それは、以下で述べる「自力社会」という結社の存在のためである。

★「自力社会設立の記」―明治10年元旦

この「自力社会」という結社は福沢によって構想され、社主に早矢仕有的、高力衛門と穂積寅九郎を社幹にした民間法律相談所だったという。3人はともに慶応義塾の出身で、中でも早矢仕は丸屋商社(丸善)を創業した人物であり、ご存知の方も多いと思われる。福沢と彼はもともと師弟関係にあったが、彼が実業家として自立した後はむしろ志を同じくする友人という間柄だったといわれている。

『丸善百年史』によると、「自力社会」の実質的な運営は高力がしていたとあるが、明治12年に横浜で小野正弘、茂木惣兵衛らによる「商法夜学舎」ができたことで幕を閉じたというから短命な結社であった。しかし、自立社、自存社、そして交詢社の視点からみると、「自力社会」は商業取引を中心にした民間法律相談所という以上の内容をもっていたようである。

元旦の日付のある「自力社会設立の記」は『福澤文集』(明治11年1月)に収められて出版されたから、福沢の執筆とみてよいだろう。簡単に主旨を要約すれば、「民事に関してはなるべく裁判に訴えないようにしよう」という内容になる。そこには、「私(わたくし)の仲裁」で話し合うことと「公に政府に訴える」ことの利害が示されている。その利害を整理してみよう。

・「私(わたくし)の仲裁」の利

  • 費用が安い。
  • 双方に恥辱遺恨もなくつき合いをつづけられる。
  • 互によく相談すれば、公明正大の理を論じながらも、自ら情実を斟酌し、情と理の間で快く決着できる。

・「公(政府)の裁判」の害

  • 費用がかさむ。
  • ひとたび原告被告となれば、敵意は生涯つづく。紛争は互に親しいからこそ起きることが多いから、損失は大きい。
  • 今の人民の様子をみると、私に自ら支配することを知らず、ささいな間違いでも政府にもち出し、不理屈、不条理をならべて御憐憫を願う見苦しい者がいる。

この「自力社会設立の記」は、訴訟をおこさずにしかずと言い、「今日限りなき商売の取引に於て千緒万端混雑の末は止むを得ずして公訴を要する場合なきに非ずと雖もこの混雑の際にも尚公訴の路を遠くするの術なしというべからず」と言う。「私に自ら支配すること」という言葉や、「自力社会」命名の由来が「社中自力を以て自ら治むるの義に取り、自力社会という」となっている点をみると、小川武平の自立社、林金兵衛の自存社という2つの「自」の原点といってよいだろう。小川武平が自力社会への入社を福沢に申し込んでいた事実からも相互のつながりをみてとることは可能だろう(明治10年3月22日付、早矢仕有的宛福沢書簡)。

★「知識交換世務諮詢」と「交詢社設立之大意」

ところで、交詢社の命名は、社是となった「知識換世務諮(ちしきこうかんせむしじゅん)」の2文字からとったのだという。「知識交換」の意味は想像がつくが、「世務諮詢」のほうは現代の我々には容易にわからない。どのような意味がこめられていたのか、前回につづいて交詢社設立の様子を次にあげる福沢書簡から追ってみる(現代語で文意を要約した)。

・9月22日付 原時行宛福沢書簡

「小幡篤次郎をはじめ社友30名ほどの発起で文学講究時事諮詢のための一社を結ぼうと相談中です」

・9月28日付 竹谷俊一宛福沢書簡

「近日社友の発起で学問研究、時事諮詢のための結社の企てがあります」

・10月7日付 岩橋謹次郎宛福沢書簡

「先日より小幡、小泉その他新旧社中30名ばかりの発起で知識交換、世務諮詢と申します趣意で一社をむすび、社則もほぼ整ったということです」

・10月12日付 大石勉吉宛福沢書簡

「この程小幡ほか旧友30名ばかりの発起で様々相談の上、当塾の旧生徒に限らず、同志の人はすべて集まろうということになりました。そこで交詢社と名づけ、仮に社則もできましたので、附言も一緒に数部さし上げます」

最後の書簡で「社則と附言をさし上げる」と記されているが、「附言」は一通り社則ができた後に付け加えられたものである。「交詢社設立之大意」(以下「設立之大意」と略記)と名を変えて、社員に配布された社則冒頭に掲げられた。社則緒言の内容を平易にのべたもので、設立意図を読みとく重要な史料である。署名こそないものの、松崎欣一氏によって福沢執筆の可能性が高いことが指摘されている。

上の書簡からは、社是が「文学講究時事諮詢」「学問研究、時事諮詢」「知識交換、世務諮詢」と変化していったことがわかる。すべてに「諮詢」という言葉が含まれているが、「設立之大意」で、これは、「相談する」の意と説明されている。「文学」は、当時では学問一般をさすので、先の2つの社是はほぼ同じ意味とみてよい。「時事」は昨今の出来事や近時の社会現象をさす。比較的長い時間をかける学問と近い現象の相談という長期短期の視野を兼ね備えた結社ということだろうか。学問という言葉が入っている点は同窓会案のなごりかもしれない。「学問研究、時事諮詢」と「知識交換、世務諮詢」は何が違うのだろうか。

「学問研究」が「知識交換」と変更された理由には、知識というより一般的で広いイメージを印象づけたい、という意図を考えることができるだろう。「知識交換」とは互に知ることを告げ、知らないことを聞くことだとある(「設立之大意」)。たとえば、商人が農業の有様を農民に聞いたり、学者士族が農工商に営業の実際をただし、農工商が学者士族に思想の方向をたずねたりすること、また役人が人民の苦楽を問い、人民が政府の情を理解することだという。

次に「時事諮詢」が「世務諮詢」となった経緯はどうだろうか。そもそも「世務」には2つの意味がある(諸橋轍次『大漢和辞典』)。「時事」とほぼ同じ「当世の国家社会のためになすべき仕事」という意味と「世の中のわづらい、日常世俗のこと、世事の繁雑」という意味である。社是の変化は「時事」の内容を保持しつつも「世の中のわづらい、日常世俗のこと」という意味を付け加えたものとみることができる。この2つ目の意味こそ、交詢社と自力社会のつながりを示すものであった。

★「交詢社設立之大意」・「世務」と「3つの『自』」

「設立之大意」によれば、「世務」とは人間が社会の中でむすぶ関係のすべてをさすようである。商業取引や金銭貸借、売買、雇用など「その繁多なること名状に堪へず。之を世務と云ふ」。どのような英雄豪傑でも独断を以てしては過ちから逃れられない。必ず他人への相談を要する。世務のなかでどうしてもトラブル、「人事の間違」はおきる。

「此間違の頂上に達したるものは、国法に訴るのほか路なきが如くなれども、或は亦、相談諮詢の方便を以て、事の緒に就くものも少なからず。本社もとより代言の事を為すに非ず。唯人事の平穏に緒に就く可きものをして緒に就かしめんと欲するのみ」

この記述は冒頭でみた「自力社会設立の記」と同じ主張である。「設立之大意」ではさらに続けて「茫々たる宇宙、無数の人、互にこれを知らず、互にこれを他人視して独歩孤立するは、最も淋しき事なり」とのべ、世務諮詢とは旅行の際に一泊の宿の貸し借りをするといった社員同士の相互扶助にまで及ぶことを説明している。

このようにしてみると、先に見た「自立社会」「自立社」「自存社」という「自」の文字を掲げる3つの結社と交詢社とに共通する福沢の意思を思い描くことができる。それは「自力社会」で課題とされた「私に自ら支配すること」「自力を以て自ら治むる」という問題意識であった。しかし、交詢社にこめられた意図は日常的な「処世の路」だけではなかった。それはまたの機会に。

【出典】

「自力社会設立の記」

 

『福沢諭吉全集』第4巻、449頁。『丸善百年史』資料編(丸善株式会社、1981年)には「自力社会設立の記」に続いて条目11条および社員姓名が掲載されている。

福沢書簡
  『福沢諭吉書簡集』、第2巻、順に10頁、251頁、253頁、256頁、263 頁
「交詢社設立之大意」
  『交詢社百年史』(交詢社、1983年)、20頁
  執筆者の認定に関しては、松崎欣一「創刊年の『交詢雑誌』を読む」(『近代日本研究』第22巻、慶応義塾福沢研究センター、2005年)55-56頁。
 
   
   
 
 
 
 
       
           

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