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オリジナル連載

時事新報史

第3回:慶應義塾出版社

 

























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 福沢が最終的に新聞創刊を決意したのは明治15年1月半ば頃と思われるが、読者の募集、官庁への手続きなどはそれから急ピッチで行われた。福沢が新聞を発行するらしいとの噂話が諸新聞に載るのは1月末、発行の官許が得られたのは2月20日、各新聞に広告が掲載されるのはそれからのことである。日本各地の知友への購読勧誘は官許以前から行われたらしく、3月1日の発行開始までに1500弱の読者を獲得していた。  


  データ的なものも少し挙げておこう。


 創刊時の『時事新報』は全部で4ページ、大きさは今日の日刊紙とほぼ同じである。紙面を埋める活字の大きさは3種類ほどしかなく、見た目は非常にのっぺりした紙面である。内容は、次のようになっていた。 

  1面 法令等の公報 叙任 裁判録 「時事新報」と見出しの付いた社説
 2面 各種雑報
 3面 海外ニュース 経済 時に漫言 寄書 漢詩投稿
 4面 広告 


  1部3銭で、月極は65銭。当時の他新聞並みのごくごく平均的な価格であった。広告料は1行8銭で、これは今の感覚では法外に安い。


  それでは、編集の実体はどうであったか。第1号からしばらく次のような社告が掲げてある。


 「社告/本社新聞紙府下配達の義、創業の際配夫不慣れにて、両三週間は自然遅刻いたし候なるも計り難く、懸念いたし候。この義あらかじめご宥恕(ゆうじょ)を請う。」


 それもそのはず、社内は大変な混乱にあった。創刊当日の福沢書簡には「発兌の混雑はなかなか思いしよりも甚だしく、昨夜はもちろん徹夜、今日の配達も極めて遅く相成り候。しかし初日のことゆえ、さまでとがめる者もこれあるまじと手前勝手に安心いたしおり候」(書簡641)と、その様子がうかがえる。


 当時の社内風景は次のようなものだった。


 「晩の七時頃から機械にかけて刷り出し(機械といっても輪転機ではない、足踏みの旧式のものである)、夜明けの三時四時にそれを手すきのものが百枚ずつ折って、片端から帯封をかけて切手を貼って出すのだ。折り畳まずにそのまま売りさばき所に廻すのが幾らあったか知らない。ただ百枚折れば誰にでも一銭ずつくれる規定になっていて、…〔福沢〕先生も二三度は自分でも出て来て手伝われたことを覚えている。」(元給仕の回想)


 当時の新聞は、配達夫によって直接各家庭に届けられるもののほかに、各地の売りさばき所を通して販売されるもの、折りたたんで切手を貼り郵送されるものとがあった。現在でも歴史ある新聞の上端に「第3種郵便物認可」の記載があるのは、新聞が郵送されていた名残である。これ以外にも、見料を取って諸新聞を閲覧できる新聞縦覧所と呼ばれる施設も各地に多数存在し、新聞の読み比べや情報収集の場となっていた。


 創刊時の奥付は次のようになっている。

編輯長 伊東茂右衛門
印刷長 岡本貞烋
社  主 中上川彦次郎
本局 東京芝区三田二丁目二番地 慶応義塾出版社
支局 東京京橋区南鍋町二丁目十二番地 時事新報扱所


  前回登場した中上川が社主、編集(輯)長は福沢と同じ大分中津出身の門下生・伊東茂右衛門(いとう・もえもん)、印刷長は福沢家の執事のような立場にあった門下生・岡本貞烋(おかもと・ていきゅう)である。


  社主以外の役職は、官への届け出上のもので必ずしも実体を伴ったものではなかった。特に編集長は、新聞の記述が法令に触れて処分を受ける際、投獄されても支障がないように設定される人身御供的なカギカッコ付きの役職でしかない。世の中にはこの立場を引き受けることを生業としている人さえいて、これを「牢行名義人」といった。


  発行元の慶応義塾出版社は、『時事新報』のために出来たものではない。以前から福沢や義塾関係者の著書の出版事業を手がけていたものである。現在の慶応義塾大学三田キャンパス、赤レンガの旧図書館が建っている辺りに建つ古い二階建て日本家屋であった。一時福沢邸になっていたこともあるこの小さな建物に若干手を加えて、印刷場も編集局も会計も発送も、全てがひしめく新聞社に仕立てていた。


  社内をちょっとのぞいてみよう。


  心臓部たる編集局は、事務室と印刷場にふすま一枚で挟まれた二間続きの日本間。奥の8畳間に社主・中上川がいて「色の白い丈のすらりとした体に金縁の眼鏡、黄八丈の着流しという服装で、一番上席に端然と座っ」ていた。それに続いて森下岩楠(もりした・いわくす)、津田純一(つだ・じゅんいち)、波多野承五郎(はたの・しょうごろう)、須田辰次郎(すだ・たつじろう)などの記者が机を並べる。次の6畳間には4,5名が雑報記者として詰めていた。2間をまたぐ位置に岡崎亀雄(おかざき・かめお)がいて、実質的な編集長をしていた。岡本貞烋はたまにやってきては「大きな声で滑稽交じりに皆を笑わせ」て様々な雑用を弁じる程度。伊東茂右衛門は別の小部屋にいる「青筋を立てた神経質らしい中老人」で経済関係の記事を書いていたという。そのほかにも遊軍のような社員が多くいて、営業の担当は高木喜一郎(たかぎ・きいちろう)と飯田平作(いいだ・へいさく)。これら社員はいずれも慶応義塾出身者であった。


  さて、実質的な経営者・福沢はといえば、同じ義塾構内にある自宅で社説を執筆し、始終社に往来したと伝えられる。他の記者が社説を起草した場合はそれを真っ赤になるまで訂正していたといわれるが、この社説執筆・添削については議論も多いところなので、別途詳しく見てみることとしよう。


  『時事新報』創刊後の福沢は、以後著作を書き下ろすことはなく、もっぱら時々刻々の世の中の動きに応じた時事論を主とする社説において意見を公にするようになるのである。


資料
・書簡番号641、明治15年3月1日付中村道太宛、『書簡集』3巻。
・「社告」、『時事新報』(明治15年3月1日〜4日付)。
・時事新報編集局元給仕・西谷寅治の回想、『伝』3巻。

 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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