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オリジナル連載

時事新報史

第2回:創刊前史 明治十四年の政変

 

























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 『時事新報』の歩みをたどる前に、福沢が新聞発行を思い立った経緯を説明しておこう。『福翁自伝』(明治32年)は、創刊の事情を次のように記している。  


 「ソレカラ明治十五年に時事新報という新聞紙を発起しました。ちょうど十四年政界変動〔明治十四年の政変〕ののちで、慶応義塾先進の人たちがわたしかたに来てしきりにこのことを勧める。わたしもまた自分で考えてみるに、世の中の形勢は次第に変化して、政治のことも商売のことも日々夜々運動の最中、相互いに敵味方ができて議論は次第にかまびすしくなるに違いない。…このときに当たって必要なるは、いわゆる不偏不党の説であるが、さてその不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏するところがあって一身の利害に引かれては、とても公平の説を立てることができない。ソコデいま全国中に、いささかながら独立の生計をなして多少の文思もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくしてあたかも物外に超然たる者は、おこがましくも自分のほかに適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、ついに決心して新事業に着手したものが、すなわち時事新報です。」


 門下生に新聞発行をしきりに勧められ、世上に鑑みて確かに自分が適任だと思ったというのである。しかし、ことはこう単純ではない。福沢が新聞を発行する計画は、福沢自身やその門下生が言い出したことではなく、明治政府の一部から持ちかけられたもので、深い政治的事情が存在していた。 


 話は明治13年12月、福沢が大隈重信・伊藤博文・井上馨の3人の参議に呼び出されることから始まる。ここで福沢は、政府の法令発布を伝えるための「公報のような官報のような新聞紙」(『福翁自伝』)の発行を依頼された。しかし政府の意図が読めなかった福沢はこれを断ろうと、翌年1月井上を訪ねたところ、政府が国会開設を決意していることを打ち明けられ、政権交代も覚悟した上で、英国流の議院内閣制を採用するつもりであると示唆された。従来から自分が主張していたことであったから、これにいたく感激した福沢は、一転新聞発行を快諾した。「三参議は決して福沢を売らず、福沢もまた三氏を欺くべからず」(書簡616)と固く誓いを交わしたのである。 


 ところがその後、運命のいたずらか、歴史の必然か、次のような出来事が重なって3参議の結束が崩壊する。

 

 まず3月、大隈が有栖川宮(ありすがわのみや)を通じて天皇に密かに建議書を提出した。ここには、英国流議会を1,2年のうちに開設すべしとの急進的な意見が記されており、そのことがいつの間にか政府内に漏れ広まった。

 

 政府外でも国会開設論がかまびすしい折りから、大隈建議書の翌月には福沢門下生が起草した憲法私案(交詢社私擬憲法案)が雑誌に発表され、それも英国流議会制度を規定して世間で話題となった。これをきっかけに民権家たちによる憲法私案発表が流行する。

 

 夏頃からは、北海道開拓使官有物払下事件と呼ばれる官民癒着が発覚し、藩閥政府打倒を叫ぶ国会開設運動が勢いづき、革命前夜のような不安定な政情となる。「開拓使」という役所の廃止に伴い、数千万円投資された官有物が薩摩閥に通じた関西貿易商会という会社へただ同然で払い下げられることが決定したという報道に世論が猛反発したのである。

 

 これら3つの出来事は、次のように理解すると、バラバラのパズルがぴたりと組み上がるように、いちいち合点のゆくストーリーになった。大隈が議会開設で抜け駆けして薩長参議を排除し、権力を独占しようとしている。その黒幕は福沢で、福沢門下生を誘導して反政府運動をさせている。運動資金は三菱から出ていて、三菱の倉庫には大量の武器が隠されている、と。三菱と関西貿易商会は、いわばライバル会社で、幹部はほとんど福沢門下生であった。

 

 この陰謀説が伊藤・井上と大隈の仲を引き裂いた。伊藤・井上は政府の保守派と接近し、我が国が開設すべき議会は、君権が強く議会の権限が小さいプロシア流にすべきとの合意を形成、さらに筆頭参議である大隈を政府から放逐する計画を密かにねっていく。

 

  明治14年10月12日、大隈は突如辞表提出を迫られて下野、慶応義塾出身者や大隈と親しいと目された少壮官僚はことごとく官界をクビになった。一方で開拓使官有物払い下げの中止と、明治23年の議会開設(必然的に憲法制定を伴う)が発表された。これが「明治十四年の政変」と呼ばれる事件である。

 

 政変の結果、福沢の準備していた政府新聞発行計画が宙に浮いた。これが『時事新報』に化けることとなるのである。

 

 もっとも、福沢は新聞発行に関して政府の雲行きが怪しいことを政変前から察知しており、政府とは全く独立して新聞を発行する準備も始めていた。しかしその途中で政変が勃発、その後は新聞発行にあまり乗り気ではなかったらしい。それを説得して発行にこぎ着けたのは、自らも外務省をクビになって怒り心頭の福沢の甥・中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう)であったらしく、そのことを次のように記している。

 

 「〔政変について〕小生の落胆立腹ひとかたならず、しかれども小生はほかに工風(くふう)もなきゆえ、しきりに福沢先生に向かって約束の通り新聞紙を発行せんことをもってし、ようやく承諾を得て、時事新報の第一号を発行したるは明治十五年三月一日なりし。しかるに新聞事業も思いの外に金の儲かるものにあらず、創業以来月々ただ損毛のみ打ち続くよりして、福沢先生の不機嫌ひとかたならず、色々小生に詰問あれども小生はそれこれと弁解して月日を送る折りから、時運のしからしむるところか、幸いに時事新報も日本第一の新聞紙たるを得て…(後略)」(明治20年1月1日付、本山彦一宛中上川彦次郎書簡)


 福沢はこのように、しぶしぶ『時事新報』を始めたというのが真相のようだ。したがって、発刊当初、ときにこの感情が顔を出し、「実は毎日毎日新聞紙に雇い出され、ほとんど当惑の次第にござ候。この骨折苦労にて新紙の評判悪しなどにては実に迷惑の甚だしきものなり」(書簡654)と愚痴めいた言葉もこぼしている。

 

  さて、以上の経緯を知って、前回紹介した荘田平五郎(三菱の幹部)宛福沢書簡を読むと、意味の深みが変わってくる。慶応義塾出身者たちが国会開設運動はじめさまざまな政治活動に手を染め、いろいろと発言する。それら全てを「福沢門下生」と把握されては、たまったものではない。福沢および慶応義塾の立場を明らかにする場として『時事新報』を設ける、このように読めてくるのである。『時事新報』が、他紙とは異なり「独立不羈」を掲げ、政府との関係や政治との距離感についていささか過敏なほどに意識することとなるのは、創刊の由来からいって必然であった。しかし、政府の息のかかった新聞の発行と引き替えに創刊されたものであったことを考えると皮肉であり、生涯在野を貫くこととなる福沢にとって大きな分岐点となったことは間違いない。


資料
・書簡番号616、明治14年10月14日付伊藤博文・井上馨宛、『書簡集』3巻。
・「福翁自伝」『全集』7巻。
・明治20年1月1日付本山彦一宛中上川彦次郎書簡、『中上川彦次郎伝記資料』(東洋経済新報社、昭和44年)所収。
・書簡番号654、明治15年4月20日付渋江保宛、『書簡集』3巻。

 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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