Web Only
ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2009年5月27日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第38回:再び福沢屋諭吉
 

目次一覧


前回 第37回
慶應義塾出版社の活動(その4)

次回 第39回
書目一覧

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

『ウェブでしか読めない』に関するご意見・ご感想はこちらへ


『時事新報史』はこちらから
『近代日本の中の交詢社』はこちらから
 

この連載を通じてこれまでに、福沢諭吉→福沢屋諭吉→慶應義塾出版局→慶應義塾出版社という流れを追いかけてきた。福沢屋諭吉は明治5年に慶應義塾出版局への発展的解消によって、姿を消したように見えたものの(本連載第17回第18回)、その後も福沢の著作の中にひょっこり顔を出したりもしていた(本連載第23回)。

今回は、明治7年に刊行された『戊辰以来新刻書目便覧』という史料をごらんいただきたい。この本の凡例には、明治元年からおよそ7年間の東京における出版社の集録とある。

  『戊辰以来新刻書目便覧』扉(朝倉治彦・佐久間信子 編集『明治初期三都新刻書目』日本古書通信社 1971年 4頁)

早速、この中の「東京府管下書物問屋姓名記」を見てみよう。東京中の書物問屋の名前が連なっているが、何とその中に「三田二丁目 福澤 福沢屋諭吉」と記されている! 消えたはずの福沢屋諭吉が、一体なぜ?

  「東京府管下書物問屋姓名記」(前掲『明治初期三都新刻書目』187頁)

前述したように明治5年、慶應義塾出版局の開設に伴って福沢屋諭吉の名称は消滅したものと思われていたのが、この史料によると書物問屋の業界内では依然として福沢屋諭吉の名称が継続して登録されていたことが読み取れる。一般の読者に向けては慶應義塾出版局・出版社あるいは福沢諭吉個人の名称を使用し、書物問屋に向けては福沢屋諭吉の名称を使用するといった、使い分けをしていたことが判明した。さらに、福沢屋諭吉時代に刊行された書物を点検してみると、何と一冊も福沢屋諭吉とは記されていなかったことがわかる。それではなぜ、このような使い分けをしていたのであろうか? その辺の事情については、残念ながら福沢自身は何も語らなかった。どうも最初のいきさつからいって、福沢屋諭吉という屋号は従来の書物問屋の慣行に対する福沢なりの反発心から生まれ、使用された経緯があるので(本連載第2回)、その時のことを後々まで福沢自身が大切にしておいたのかもしれない。

  「東京府管下書物問屋姓名記」(前掲『明治初期三都新刻書目』190頁)
     

その後、明治8年9月3日、太政官布告第135号によって出版条例が改正された。これにより、版権に関する詳細な規定と罰則が設けられ、福沢の悲願であった偽版対策としての版権=専売権が確立した。その一方で、検閲の所管官庁が文部省から内務省へと移管し、書林組合は自然消滅することになった。これをもって福沢屋諭吉は、登記上の屋号としてもその終焉を迎えることになったのである。

  『戊辰以来新刻書目便覧』奥付(前掲『明治初期三都新刻書目』203頁)

 

【写真1】 『戊辰以来新刻書目便覧』扉(朝倉治彦・佐久間信子 編集『明治初期三都新刻書目』日本古書通信社 1971年 4頁)
【写真2】 「東京府管下書物問屋姓名記」(前掲『明治初期三都新刻書目』187頁)
【写真3】 「東京府管下書物問屋姓名記」(前掲『明治初期三都新刻書目』190頁)
【写真4】 『戊辰以来新刻書目便覧』奥付(前掲『明治初期三都新刻書目』203頁)

著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
 
Copyright © 2005-2006 Keio University Press Inc. All rights reserved.