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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2007年11月16日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第21回:慶應義塾出版局の活動(その3)
 

目次一覧


前回 第20回
慶應義塾出版局の活動(その2)

次回 第22回
:慶應義塾出版局の活動(その4)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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前回述べた明治5年11月の改暦の報に接した福沢諭吉によって、翌明治6年1月に出版されたのがその名も『改暦弁(かいれきべん)』。その内容は新旧暦の比較を中心に、曜日や月の英語名、時計の見方までが付されている。この本の執筆の動機については、福沢自身が『福沢全集緒言』(明治30年刊)の中で次のように回顧している。今回もまた、以下に引用する史料はすべて現代風に改めて、句読点も適宜施した。

改暦弁表紙

自分(福沢)としては太陽暦の採用に大賛成なものの、政府のやり方に大いに不満を抱いた。暦の変更は一大事件である。改暦を断行するには国民にその理由を知らせ、新旧の暦の差異を丁寧に繰り返し説明して、納得させる必要がある。ところが政府は、簡単な改暦の布告と詔書を一方的に下すのみで、国民は詳細を知ることができない。そのような事情を役人は心に留めず、また説明もしない。そこで、民間人の自分が改暦を説明して政府の事業を助けようと思いついた。

ここでもう一度、前回触れた改暦に関する布告と詔書をご覧いただきたい。詔書は割りと丁寧に新旧暦の差異を説明しているように思えるのだが、布告は確かに素っ気ない。政府は布告と詔書を一方的に下すだけ、それを掲載して2万5千部も売れたという『東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)』は、何の解説も加えずに政府の発表をそのまま伝えるだけ。このような状況の中で、啓蒙家福沢諭吉の闘志が燃え上がった様子は、想像に難くない。こうして、改暦の説明書である『改暦弁』が誕生した。実は改暦の布告・詔書が下された頃、福沢はたまたま風邪を引いて寝ていたので、そのまま病床で執筆して朝から午後にかけてのわずか6時間程で脱稿したという。

  改暦弁 13丁目   改暦弁 21丁目

改暦に際して世間には類書もいろいろと出版されたものの、内容のわかりやすさと出版のタイミングの良さ(まさに新暦への移行と同じ明治6年1月1日!)から、『改暦弁』は爆発的に売れまくった。例えば、地球と太陽の関係を説明する際に、地球を独楽(こま)に太陽を丸行燈(まるあんどん)に例えて、自転と公転のしくみを説明している。福沢としては何の苦労もせずにわずか6時間程で書き上げて、「木の葉同様の小冊子」と回顧しているが、その純益は発売後2〜3ヶ月で700円余り、その後も飛ぶように売れ続けて1,500円にまで及んだという。購入者の中には、何と500部も取り寄せて県下の村々へ配った浜松県令の林厚徳(はやし あつのり)のような人物もいた。

改暦からしばらくたった後に福沢は、明治12年3月4日付の松田道之宛書簡の中で、次のように述べている(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第二巻』岩波書店 2001年 173〜174頁)。

写真4 松田道行

〔前略〕改暦の令があった。この時も、ただ一片の詔で教え諭す文章はなかった。あまりにもがまんできなかったので、自分は私的に改暦弁という小冊子を出版して、わずかの間に10万部ばかり国内に広まり、この出版によって少々行政を都合よく助けたと、今でも私に自負の気持ちがある。〔後略〕

この書簡では、折から琉球処分に赴く松田道之に対して、強圧的なやり方ではなく、筆と口を使って説諭することの大切さを述べている。その際に引き合いに出されたのが改暦の時のことで、政府による一方的な改暦の断行に対して『改暦弁』の果たした役割の大きさを自負している。この書簡によると、『改暦弁』は10万部以上も売れたらしい。

また、前回に触れた暦注(れきちゅう)について、福沢は『改暦弁』の中で政府と同様、次のように徹底的に批判している。

日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい。

幼少の頃から迷信などの非科学的なことには懐疑的・批判的であった福沢だけに、さぞかし旧暦の不合理性が許されなかったことであろう。「馬鹿者」という厳しい表現の中に、暦注に振り回されている人々に対する福沢の怒りの気持ちが込められている。

さて、改暦から約130数年後の現在。『改暦弁』の効果によってすっかり太陽暦に切りかわったかといえば、実はそうでもない。現在でも旧暦はまったく姿を消したというわけではないし、暦注を大切にする人々も依然として存在し続ける。「知者と馬鹿者」という福沢の二分法では、とても割り切れない要素が暦の中には含まれているのかもしれない…。

【写真1】『改暦弁』表紙(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真2】『改暦弁』7丁オモテ 太陽と地球の図(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真3】『改暦弁』11丁オモテ 時計の図(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真4】「第7代東京府知事 松田道之肖像」(『東京市史稿 市街編第63巻』より
      ※写真は東京都公文書館蔵)

著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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