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オリジナル連載(2007年10月16日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第20回:慶應義塾出版局の活動(その2)
 

目次一覧


前回 第19回
慶應義塾出版局の活動(その1)

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慶應義塾出版局の活動(その3)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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明治5年11月9日、政府の太政官(だじょうかん)から次のような布告が下された。今回もまた、以下に引用する史料はすべて現代風に改めて、句読点も適宜施した。

このたび改暦のこと、別紙詔書の通り命令が発せられたので、この内容を伝える。

何やら改暦に関する布告らしいが、これだけでは具体的な内容がよくわからないので、続いて「別紙詔書」を見てみよう。

朕(ちん)が思うに、我国で広く一般に使われている暦は、天体の月の満ち欠けによって1月2月…という月を定めて、太陽の運行に合わせる。だから2〜3年の間に、必ず閏月(うるうづき)を置かなければならない。閏月を置くあたりには、時に季節の早晩があり、結局は暦との誤差を生じるに至る。特に暦の中下段に示されるようなものは、だいたい根拠のないでたらめに属し、人間の知恵の発達を妨げるものも少なくない。まさしく太陽暦は太陽の運行に従って、1月2月…という月を定める。日数に多少の違いがあるといっても、季節に早晩の異常はなく、4年ごとに1日の閏を置き、7千年後にわずか1日の誤差を生じるに過ぎない。これを太陰暦と比べれば極めて精密で、その便利さと不便さも始めから論じるまでもない。よって今から旧暦を廃し太陽暦を使い、全国でいつまでもこれを行わせよう。役人はこの内容を実行しなさい。
  明治5年壬申11月9日

この詔書によると、当時の日本で一般に使用されていた暦の欠点として、「閏月」と「暦の中下段」の問題が指摘されている。

そもそも日本の暦は、7世紀初頭に百済(くだら)の僧である観勒(かんろく)が暦法を伝えたのが始まりとされる。江戸時代になると17世紀後半に、幕府の初代天文方(てんもんがた)の渋川春海(しぶかわ しゅんかい/はるみ)が貞享暦(じょうきょうれき)を作成し、それを宝暦(ほうりゃく)・寛政(かんせい)・天保(てんぽう)と順次改良して使用した。先の布告と詔書が下された明治5年当時は、この天保暦が使用されていた。詔書の中では「太陰暦」と記されているが、正確には太陰太陽暦である。純粋な太陰暦は月の運行に従って暦を作成するが、その方法ではどうしても太陽の運行との差が生じてしまい、暦と季節がずれるという弊害が避けられない。そこで適宜、閏月を設置して暦と季節のずれを調整する工夫がいろいろと重ねられてきた。このように太陰暦をかなり改良したものが太陰太陽暦である。ところがこの閏月というものが曲者で、その設置方法はなかなか煩雑であった。

一方、「暦の中下段」とは、暦の中段と下段に記された暦注(れきちゅう)のことである。これは日々の吉凶や生活の指針を示すもので、十二直(じゅうにちょく)・二十八宿(にじゅうはっしゅく)・九星(きゅうせい)・六輝(ろっき)・雑節(ざっせつ)などいろいろとある。これらのうち、十二直や二十八宿はあまり聞きなれないかもしれないが、六輝の大安・仏滅・友引や、雑節の節分・八十八夜・二百十日・土用・彼岸などは現在でも結構なじみ深い。人によっては、九星の一白水星・二黒土星・三碧木星なども気になる存在かもしれない。この詔書では、そのような暦注をでたらめとして切り捨てている。

この詔書に続いて、太政官からはまた次のような布告も下された。

一、このたび太陰暦を廃し太陽暦を広く一般に行うことになったので、来る12月3日を明治6年1月1日と定める。
  但し新暦は印刷ができ次第、配布する。

一、1箇年365日、12月に分けて、4年ごとに1日の閏を置く。
〔後略〕

改暦の布告・詔書が下されてから、わずか3週間後に改暦を断行するとの衝撃的な内容である。当時、欧米諸国との貿易・外交など様々な面で暦の差異が実際に支障となっていた上に、折からの文明開化の風潮が改暦の必要性を助長していった。さらに改暦を断行せざるをえない切実な理由として、財政的な問題が当時の参議(さんぎ)大隈重信によって次のように指摘されている。政府から役人に対する給料の支払い方法は、明治4年に従来の年俸制から月俸制に切りかえられたが、たまたま来る明治6年には6月に閏月が予定されていて、確実に1ヶ月分の給料を余分に支払わなければならないことが判明した。政府にとって、思わぬところで支出の増加である。そこで改暦を断行して、明治5年の12月は1日と2日の2日間しかないから12月分の月給は支払わず、さらに明治6年6月に予定されていた閏月は自然消滅ということで、役人の月給2ヵ月分を支払わずに済むことになったという。今から思えば随分と乱暴なようにも思えるが、それほど当時の政府としては近代化政策のためにお金を回したかったのであろう。いずれにしても、先の詔書には新暦の印刷がまだできていないことも示されていて、この改暦はかなり急激な改革であったことが伝わってくる。

その一方で政府の事情とは別に、長い間にわたって日常生活に密着してきた暦が廃止され、短期間のうちにまったく新しい暦に変わるという一大事に、一般国民は振り回されることになった。前述の布告と詔書を掲載した『東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)』の売り上げは、2万5千部以上にもなったという。当時の改暦に関する悲喜こもごものエピソードは、下記の【参考文献】を適宜ご覧いただきたい。

それでは、肝腎の福沢諭吉および慶應義塾出版局は、この改暦に対してどのように関わっていったのであろうか。それはまた、次回のお楽しみに…。

【参考文献】
 内田正男『暦と日本人』雄山閣出版 1992年
 岡田芳朗『暦ものがたり』(角川選書31)角川書店 1982年
 岡田芳朗『明治改暦―「時」の文明開化』大修館書店 1994年
 岡田芳朗『暦のからくり』はまの出版 1999年
 渡邊敏夫『暦入門 暦のすべて』雄山閣出版 1994年


著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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