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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2007年12月19日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第22回:慶應義塾出版局の活動(その4)
 

目次一覧


前回 第21回
慶應義塾出版局の活動(その3)

次回 第23回
慶應義塾出版局の活動(その5)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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暦も太陽暦に切りかわった明治6年、この年1月27日付の槙村正直(まきむら まさなお)宛書簡の中で、福沢は慶應義塾出版局について、次のように語っている(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 所収)。今回もまた、引用する史料はすべて現代風に改めて、句読点を適宜施した。

〔前略〕私の翻訳書も、毎度申し上げます通り製本が間に合わないのです。実は表紙の製作に支障がありますので、このたびは少々新しい方法を考えて、表紙製造局を開設し、製本すべてを自分でいたすつもりです。2月1日より毎日1千あるいは2千冊の書籍はできる仕組みを整えます。2月中旬より京都・大阪へ書籍をたくさん送り、何万冊でも間に合わせることができるでしょう。なおまた、大阪・京都へも私方の製本所を開設するつもりで、取り掛かっております。毎度言い訳ばかりいたすようでございますが、このたびより始めて盛大に翻訳書を作り出す手続きができたことについて、実は東京でこれまで大量の製本をいたすことがなく、わずかに1万〜2万部の書籍を製本しても、いろいろな品物がすぐに差し支えて、不都合でした。このたびは昔風の職人を頼まず、少しばかりの器械にて、表紙も製造できますので、必ずご違約はいたさないつもりにございます。〔後略〕

宛名の槙村正直は当時の京都府参事で、後に京都府知事になる人物である。改暦に伴って『改暦弁』は飛ぶように売れまくったものの、どうも慶應義塾出版局では製本作業の一部を外部に依頼していたようである。その外注の中でも特に表紙の製作に問題があって、大量生産ができずに商品の納期も遅れがちであったことが読み取れる。そこで従来からあった印刷所に加えて、表紙製造局という製本所を開設して、印刷から製本までの全工程を塾内でできるようにした。福沢の自筆による「総勘定」(慶應義塾『福沢諭吉全集 第二十一巻』岩波書店 1964年 7頁)には、明治6年の「出の部」に「五千二百七拾六両七貫四百六拾四文 製本所元入」と記されているから、製本所の開設に対して相当なお金がかけられたことが読み取れる。さらには、関西方面への進出計画も意欲的に語られている。

帳合之法 初編

この思い切った組織改革を受けて、明治6年6月には『帳合之法(ちょうあいのほう)初編』が刊行された。これは、アメリカ人ブライアントとストラットンの共著Common School Book-keepingを翻訳したもので、西洋簿記学に関する日本最初の文献である。福沢は後に『福沢全集緒言』(明治30年刊)の中で、この『帳合之法』のことを「最も面倒にして最も筆を労したるもの」と述べている。数ある福沢著訳書の中で、このように位置付けられる『帳合之法』とは、一体?

それはまた、次回のお楽しみに…。

【写真1】『帳合之法 初編 一』 見返し(慶應義塾福沢研究センター蔵)

【参考文献】
西澤直子「新資料 槙村正直宛書翰について」『近代日本研究』第12号
慶應義塾福澤研究センター 1996年
 

著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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