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組織不正の心理学  立ち読み

『組織不正の心理学』

  
蘭 千壽・河野 哲也 編著

「序 組織倫理への心理学的アプローチ」より抜粋

 

 


「序 組織倫理への心理学的アプローチ」より抜粋
 


あとがき
 


『組織不正の心理学』
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経営倫理の誕生と必要性

組織的不正の問題は、言うまでもなく道徳や倫理に関わる問題であり、これに対して有効な処方箋を提案することは倫理学の責務である。しかし、これまでの倫理学は、組織的不正の問題にはうまく対応できていなかった。というのも、道徳や倫理の問題を個人の問題へと還元し、組織のあり方を問うことがほとんどなかったからである。しかし個人の行動は、組織のあり方に強く左右される。それが業務の場合はなおさらである。組織の分析に踏み込まずに、不正を防止する手段や方策を見いだすことは困難である。

そこで応用倫理学の中に、組織的な不正・不祥事を扱う「経営倫理学 business ethics」(あるいは「ビジネス倫理学」「企業倫理学」)と呼ばれる分野が生まれた。経営倫理学は、80年代に企業不正が続発したアメリカでまず発展し、10年ほど遅れて日本に導入され、92年に日本経営倫理学会が発足している。経営倫理とは、ビジネス(仕事・業務・事業)そのものに関わる倫理であり、企業に限らず、非営利団体を含めた組織体のあらゆる事業の倫理性を問題とするものである。

経営倫理には、個人倫理、職業倫理、組織倫理という3つの側面が含まれている(田中 2005: 29-30)。個人倫理とは、組織を構成する経営者や社員の個人としての倫理を指し、職業倫理は、特定の業務に関わる専門職としての倫理を指し、組織倫理とは組織的な企業活動に関わっている。この3つの側面はたとえば、個人商店であれば、商売をおこなう上での個人として道徳的行動を意識するだろうが、専門職としての責務や組織人としての倫理は意識しないであろう。あるいは、弁護士や研究者などは自らの専門性に関連する倫理をまず意識するだろうが、組織人としての倫理性はそれほど強く感じないかもしれない。もちろん、弁護士や研究者も組織に属している以上、組織倫理と無関係ではありえない。経営倫理は主に組織倫理を問題にするものである。

近年、企業や大学でのエンジニアや科学者を対象とした「工学倫理」あるいは「技術者倫理」と呼ばれる分野が注目されている。工学倫理は、工学に関する専門知識を有するエンジニアや科学者の職業倫理を高めるための応用倫理学である。しかし現代社会においては、エンジニアや科学者がほとんどつねに組織の中で研究や開発をおこなっていることを考えるならば、工学倫理も経営倫理と切り離して考えることはできないであろう。

経営倫理学は、先進国のアメリカでも始まってまだ30年程度であるし、日本ではまだ10数年ほどの歴史しかない。しかし近年、「企業の社会的責任(CSR: Corporate Social Responsibility)」や「コーポレート・ガバナンス」「コンプライアンス」といった経営倫理から発した概念を目にしない日はないほどであり、この分野への期待は大きくなる一方である。

先に述べたように、この10年ほどで組織的不正が「増加」した原因は、不況や低成長などの経済的要因だけによるものではないだろう。むしろ、以前よりも企業や官公庁に対する倫理的な要請が高度化しているのである。以前では、政府や企業、専門家が「依らしむべし、知らしむべからず」といったパターナリティック(家父長的温情主義的)な態度で国民や従業員に接することが許容されたが、現在では人々は参画型民主主義を求めるようになってきている。参画型民主主義では、市民はこれまで一部の政治家や官僚、専門家に任せきりになってきた事柄の決定に自発的に参画しようとする。たとえば、住民投票、情報公開法、インフォームド・コンセント、企業・公官庁への外部監査、参審性の検討、製造過程開示、学校の選択自由化がそうした要求の一旦である(表2参照)。


表2 組織への倫理的要請の高度化  
 

(1)パターナリズムから参画型民主主義へ
・住民投票
・情報公開法
・インフォームド・コンセント
・企業・公官庁への外部監査
・裁判員制度
・JABEE
・製造過程開示
・学校の選択自由化


(2)組織に対する要求の多様化
・厳密な機会均等
・セクシャル・ハラスメント対策
・環境保護
・異文化理解
・健康と安全の基準
・プライバシー保護
・知的所有権
・競争の公正、秘密保持
・地域貢献、文化貢献、国際貢献

 

また、組織に対する倫理的な要求も多様化し、増加している。たとえば、厳密な機会均等、セクシャル・ハラスメント対策、環境保護、異文化理解、健康と安全の基準、プライバシー、知的所有権、競争の公正などは、従来ならばそれほど問題とならなかった要請であるが、今日の企業はこれらを無視することはできなくなっているのである。さらに、地域貢献、文化貢献、貧困対策、低開発諸国への貢献なども期待されるようになってきている。

しばらく前までは、「経営の倫理」「企業の倫理」などと言うと、「経営や営利活動が倫理と両立するのか」などといった疑問が浴びせられたものであるが、現在ではそのようなことを問う者はいない。上で挙げたような不正や不祥事を起こした企業は、刑事民事の裁判の対象となったのみならず、著しいブランドイメージの低下を招き、重大な経営上の損失を招いたからである。官公庁であっても、財務省(旧大蔵省)や防衛施設庁、社会保険庁などは分割されたり解体されたりした。もう社会は、反社会的な行動を組織に許さなくなったのである。


経営倫理に心理学の視点を

これまで経営倫理学は、経営学と倫理学が結びついた学際的領域として発展してきた。それゆえ、企業の倫理的な問題を分析し、その解決策を考案するのにも、主として組織運営論や構造論、法律・制度論などの経営学的な観点からなされてきた。現に、日本経営倫理学界は、おもに倫理学者と経営学者、企業や公共団体の経営者や倫理委員から構成されている。

組織的な不正・不祥事の特徴は、個人としては「普通」で常識のある人が、集団の力学のなかで不正に加担していってしまう点にある。経営倫理学にとって経営学的な方法論は欠かせないとはいえ、それは主に組織全体を改変できる経営者の立場に立ったものであろう。もちろん、不正を根絶し、組織を倫理的に高度なものにするためにはトップの強いイニシアティブが何よりも求められる。しかし他方で、組織の内部にいて、一人の個人の立場に立ち、その集団の力学を捉えようとした観点は、これまでの経営倫理学ではあまり見当たらない。経営倫理学は、経営学に加えて、集団心理学や社会心理学とも手を組んで進めなければならないはずである。

経営倫理学の目的は、ビジネスとしての価値基準(業務の遂行や利益)と倫理の価値基準を両立することにあるとされる(梅津 2002:2-7)。ビジネスと倫理が「両者勝利」の関係にあることが経営倫理の理想とするところである。すなわち、ある組織の構成員のモチベーションが高く、成長を続けられるモラール(士気)を保った状態であることと、倫理的に高度であることは両立することである。

本書の目的は、これが可能となる条件を集団心理・社会心理の観点から示し、組織の倫理性向上の方策を提案することにある。そこで、本書が依って立つ理論的立場は、新しいシステム理論であるオートポイエーシス理論にある。

オートポイエーシスとは「自己創出」「自己製作」などと訳され、生物や社会など変化し成長するシステムを特徴づける性質のことである。オートポイエーシス的なシステムとは、構成要素の相互作用と変換とを通じて、それらの構成要素を生み出した関係性のネットワークを持続的に再生成していくようなシステムのことである。それは、自分自身を絶えず創り出していくという意味において自己組織的なシステムである。しかし単純な自己組織的システムとの違いは、オートポイエーシス的なシステムでは自己参照(自己言及、自己認識)の変化が自己生成の変化を生み出す点にある。オートポイエーシスとは、自己言及的で自己決定的(自分自身で自分のあり方を定める)なシステムである。

組織で言えば、「この組織はどういう存在なのか」「その企業は何をなすべきなのか」という企業の自己参照(自己認識)の変化が、その企業を新しいものへと再創造していく。本書の目的は、システムの観点から組織的不正が発生しやすい組織構造を分析し、さらに、オートポイエーシス理論の観点から、組織的不正を防ぐための(成人のための)教育方法を考案することにある。

本書の基本的な主張は、「倫理・道徳的であることは自己創出的(オートポイエティック)な力の発露に他ならず、それは組織の成長の力でもある」にある。組織の倫理性とは、組織においてあるコミュニケーション構造(上記の「関係のネットワーク」)が成立したときに、自ずと生まれる創発的特性である。組織の倫理性は「遵法指令」などの形でトップから指令されて生まれるものではない。それまでとは組織のコミュニケーション構造を変化させることで、倫理性をもった組織が創出されるのである。そして、組織の倫理性(モラル)と活力(モラール)とは別のものではなく、その双方の向上を同時に目指すような組織改善方法・教育方法が提示可能なのである。

こうした本書の観点は、これまでの経営倫理に比べて以下のような新しい視点を含んでいる。

第一に、組織の倫理的諸問題に対し、心理学的アプローチを試みている点である。先に述べたように、従来の経営倫理は、主に倫理学と経営学の視点から論じられており、組織内部の人間の行動や心理についての考察はあまり見当たらない。とくに、第三世代のシステム論であるオートポイエーシス理論をこの分野に組み込んだ研究は存在しない。

第二に、経営者の経営理念や従業員個人の道徳心という個人心理学的な視点ではなく、組織内外のコミュニケーションに着目する点に特徴がある。

第三に、上の観点を生かしながら、倫理教育の具体的な方法について提案している点である。ここでは、倫理意識の測定法と、大学で試みた組織倫理プログラムとその成果を紹介する。

最後に、本書は、倫理学と教育心理学、集団心理学の専門家による本格的な共同研究であることにも特徴がある。執筆者6名は、これまで数年にわたり共同研究・共同調査をおこない、ディスカッションを積み重ねている。

             
(本書2頁から7頁)

 
編著者プロフィール:著者プロフィール蘭 千壽(あららぎ ちとし)

 〔序・第1章・第5章・第6章〕 ※〔 〕内は執筆担当章
1979年、九州大学大学院教育学研究科博士課程(教育心理学)修了。教育学博士。
現在、千葉大学教育学部教授。
著書に、『変わる自己変わらない自己』(金子書房)、『教師と教育集団の心理』(共著、誠信書房)、『パーソン・ポジティヴィティの心理学』(北大路書房)ほか。
専門は教育心理学と社会心理学。オートポイエーシス論と教育の接続に関心がある。

河野哲也(こうの てつや)

 〔序・第1章・第5章・第6章〕
1993年、慶應義塾大学大学院後期博士課程(哲学)修了。博士(哲学)。
現在、玉川大学文学部准教授。
著書に、『レポート・論文の書き方入門』(慶應義塾大学出版会)、『環境に拡がる心』(勁草書房)、『〈心〉はからだの外にある』(NHK出版)ほか。
専門は哲学と倫理学(組織倫理・科学技術論)。

 

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