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人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第11回

中国大陸と水野清一
―「新しい歴史学」としての考古学とミンゾク学・その2―


 

 ずいぶんと間が空いてしまったが、連載第8回に引き続き、水野清一を中心に「新しい歴史学」としての考古学とミンゾク学の問題を考えてみよう。

 

 水野は「東洋史」「東洋考古学」の同学である以前に「文化史学」「民俗学」の同好だった*1。その水野を中国大陸に邁進させていくきっかけとなったのが北京留学(1929年4月〜1930年11月)である。1927年3月、浜田青陵(京大)、原田淑人(東大)が日本側代表となり馬衡(北京大)ら中国側の考古学者と折衝した結果、日中の考古学者の連絡機関として「東亜考古学会」が設立される*2。「東亜諸地方ニ於ケル考古学的研究調査」(会則第二条)を目的に掲げる同会は、中国北東部を中心に発掘調査を行い、その報告書を「東方考古学叢刊」として刊行するとともに、交換留学制度による人材育成・交流にも力を注いだ。その第1回(1928年)の駒井和愛(1905-71、考古学者、東大卒、後に東大名誉教授)に続き、水野が派遣されることとなったのだ。

 

 1929年の春、北京に到着した水野は、「東四牌楼を少し南へ下って東に折れた演楽胡同、その路北三十九号の唐氏の家」を宿舎とする*3。そこは前年より京都から留学していた中国文学研究者・吉川幸次郎――後の東方文化学院京都研究所での同僚――の宿舎だった。ここで彼らは、「同じ釜の飯」を食う仲間、「厳密にいえば、少なからぬ場合は同じ鍋の麺」を食う仲間となる。「麺の方が米飯よりもむこうではうまいことを、二人で発見し確認した」からだ*4。1930年には、第3回の留学生として派遣された江上波夫がここに加わり、彼らの宿舎はたぐいまれな学問道場と化した。吉川は以下のように回想する。

 

 留学は日本ではもちにくい時間を与える。二人は盛んに議論をした。あるいはそれを楽しんだ。江上波夫が来てからは一層であった。おおむねは方法論であった。何かの拍子に、文献の信ずるに足らぬことは、ほれこの例によっても顕著だと、彼はいい、私は私で、文献は事実の記録としては信ずるに足らぬ場合も、文献がそう書いているという事実、それは厳然として存在すると、今日もなお考えつづけていることを、今よりも稚拙な論理でいい、相手の論理もまた稚拙であったに相違ない。そこへ江上氏が外から帰って来、双方をなだめるような、けしかけるようなことを、例の早口でまくし立て、もう寝ようやといったのは、夜半をすぎた二時であった。そうしたこと一度でない*5

 

 この時期、水野が最も親交を深めたのが江上波夫である。「二人は北京大学で馬衡先生の金石学の講筵に連なり、学外では陳垣、容庚、周作人などのお宅をしばしば訪問して中国一流の学者文人の謦咳風貌に接することができた。また瑠璃廠や髟沁宸フ書店や古玩鋪を一軒一軒廻って中国の図書、文物に自由に親しむ楽しみを学んだ」といい*6、「その親密さは全く兄弟の関係のよう」だった*7

 

 二人の相性の良さはフィールドワークにおいて如何なく発揮される。ときに匪賊に追われ、ときに官憲に拘束されるなど、政情不安のなかでのトラブルを物ともせず、二人は華北・内蒙古の地を果敢に踏査した。江上は以下のように回想している。

 

 大体水野君は学問に対して非常に熱心な人だが、それだけではなく、ひどく色々なことに関心をもっている。私も何でも好き、何でも面白いという方で、お互いに好奇心があるでしょう。それで、調査に行くにしても、二人とも何の同意も、下調べもせずに出かけてゆく、出たとこ勝負という方法ですよ。これが全く二人に共通していた。おのづから人の知らないところの調査が好きなんですよ。だから、どこでもいいんです*8

 

 遺跡もそれ以外も何でも見てやろうという水野のスタンスは、こうした江上との大陸行脚でますます強固なものとなり、その学問的な屋台骨となったものと思われる。二人の旅の考古学的成果は後に東亜考古学会より江上・水野の共著『内蒙古・長城地帯』(1935年)として刊行され、中国北部地域の新石器文化・青銅器文化研究に新生面を開く。このほか、水野は雑誌『民俗学』に「蒙古遊牧民の生活―シリンゴル蒙古見聞録―」を発表し*9、内蒙古の民具を京大に持ち帰るなど*10、ミンゾク学方面においても貴重な資料を残している。


江上・水野1935『内蒙古・長城地帯』より、二人の踏査したフィールドを示す地図

 

 1930年12月、留学を終えて帰国し、東方文化学院京都研究所の研究員となった水野は、以後、政情不安により渡航が禁止される1945年まで、ほぼ毎年のように中国大陸に赴き、調査研究を推し進めていく。その精力的な調査ぶりは、ただ驚嘆するほかない。「本務」の考古学調査については長廣敏雄との共著『雲岡石窟』全16巻32冊(1951-56)や東亜考古学会の報告書に譲るとして、本稿ではそれ以外のミンゾク学調査について取り上げたい。

 

 ここで興味深いのが、大東亜学術協会の雑誌『ひのもの』『学藝』『学海』である。少し遠回りになるが、大東亜学術協会とその雑誌について確認しておこう。というのも、この雑誌が、戦中・戦後の新京都学派を考える上で非常にユニークな情報源となるからだ。

 

 大東亜学術協会は、1942年夏、「大東亜共栄圏の風土、民族、文化を学術的に調査研究し、以て大東亜新文化建設に寄与」することを目的に設立されたもので、会長には新村出(京大名誉教授、言語学者)、松本文三郎(東方文化研究所長、インド学者)、羽田亨(京大総長、東洋史学者)、西田直二郎(京大教授、日本史学者)を迎え、そのほか、「京都帝大の東洋諸学の中堅学者に東方文化研究所の人々」を委員とした、あたかも、東方文化研究所を中心に京都の人文学者を総動員したような団体である*11。敗戦後は「東方学術協会」に名称変更し、少なくとも1948年まで活動したことが確認できる。この団体の発行する雑誌が『ひのもと』『学藝』『学海』なのだが、戦中の出版統制のあおりを受け、誌名と発行所名が目まぐるしく変転する。整理すると以下のようになる。

 

ひのもと(大東亜学術協会/ひのもと社)昭和17年12月(5巻11号)〜昭和18年5月(6巻5号)*12
ひのもと(大東亜学術協会/大和書院) 昭和18年6月(新1巻1号)
学藝(大東亜学術協会/大和書院) 昭和18年7月(1巻2号)〜昭和19年5月号(2巻5号)
学海(大東亜学術協会/秋田屋) 昭和19年6月(1巻1号)〜昭和20年6月号(2巻6号)
学海(東方学術協会/秋田屋) 昭和20年7・8月号〜昭和22年5月号(4巻5号)
学藝(東方学術協会/秋田屋) 昭和22年7月(4巻6号)〜昭和23年9・10月号(5巻6号)

 

 このように、誌名も発行所もバタバタした印象をぬぐいがたいのだが、にもかかわらず、実質的な編集は一貫して東方文化研究所で行われている点が注目される。推測するに、優れた学術誌を関西で発行するという企画が最初にあり、それに乗ったのが東方文化研究所周辺の学者たち、ということだったのだろう。大東亜学術協会の創立日がはっきりせず、会則のたぐいが誌面に掲載されなかったことが、そうした事情を暗示させる。さらに興味深いのは、誌面内容との時局との落差、時局に乗ろうとして乗り切れていないような、中途半端な便乗具合である。「詔書」や「天皇御製」が掲載され、時局への貢献を謳う論説もあるのだが、実際のところ、時局に役立ちそうにはとても思えない、強いて良くいえばアカデミック、率直にいえばマニアックな内容が少なくない。これをどう評価するかは難しいところだが、とりあえず、そうした誌面の雰囲気が、敗戦にもかかわらず廃刊されなかった要因の一つだろう。いずれにせよ、東方文化研究所のスタッフのみならず、後に新制人文研の西洋部を率いる桑原武夫、京大生態学派の今西・梅棹といった「新京都学派」の面々が寄稿者に名を連ね、さらには西田直二郎門下の京大文化史学派も登場するあたりが、この雑誌の気になるところだ。また稿を改めて取り上げよう。

 

 水野に話を戻すと、東方文化研究所の研究員としてほぼ自動的に大東亜学術協会の委員となった彼も、必然的に雑誌の編集に携わり、寄稿することとなった。なかでも興味深いのは、「民俗雑陳」と題した連載コラム(1943年7月号〜1948年7月号)である。これは、大陸で描きためたスケッチに解説文を加えた中国民具論の前後20回にわたるノートである。第2回「狼をつく短剣」は次のような文章である。

 

 こんな短剣のかたちだけだすと、ひとは古代エウラシア大陸の遊牧民に使用されたアキナケス、他名軽呂剣だとおもふにちがひない。一歩すゝんだひとは軽呂剣だが、青銅器時代のものにしてはくせがちがふ、ことによると近代の偽物かも知れないといふ風に考へるに相違ない。しかし事実は、さやうな骨董でなく、またさやうな悪意ある偽作品ではない。大同にちかい陽高県の上吾其村で現在使用してゐる短剣である[…]。

 

 むかし軽呂剣はもちろん第一に武器であつた、いくさの道具であつた。けれどもそのひろい分布のうちにはいまのモンゴルのごとく、肉をさく家庭の利器に使用したものもあつたらうとおもふ。[…]この陽高の短剣は狼をさす道具だといふ。ちやうどこの辺の狼は、わが国の野猪のやうなものだ。畑はあらさぬけれども、人畜に被害があるので、なんとかして駆除しなければならぬのである。わたくしはこの鉄剣をみ、このはなしをきゝ、なによりもまづわが国の大きな剛丈な猪つき槍をおもひだした。この二つのものゝあひだはすがたかたちの変化はあつても、なにかしら共通なものが感ぜられた*12

 

狼をさす短剣(『学藝』1-4より)

 

 古代にまで遡るフォルムの短剣が、現代の華北で害獣駆除具として使われている。この事実に興味を覚えた水野は、日本の猪つき槍を想起し、野生動物との攻防を繰り広げる日中の人々に思いを馳せる。物のディテールに寄り添いつつ、時間と空間を自在に行き交う軽やかさがこの連載の魅力である。

 

この連載は、戦後も別段変わりなく続けられた。1946年2・3月号の「槌子」は以下のようなものである。

 

 大同の石炭は有名であるが、それは単なる工業用といふものではなく、土地の民生にふかくくひ入つてゐる点において充分注目に価するとおもふ。黒光りのある石炭の大塊はなんとかくだかねばならぬ。そのくだいて小さくする道具がこゝにあげた梵子(チョエヅ)のもつとも大きな役目である。もちろん、槌子であるかぎり、なんでもたゝきこみ、たたきわる役目はするわけであるが、石炭わり以外の仕事はいたつて少いのである。大きな鋳物のから、それは適宜の柄をつけたものであるが、そのかたちが金石併用期の闘斧とまつたくおなじであるからおもしろい。[…]赤峰紅山後の石金併用期の石槨墓からの例は東亜考古学会の『赤峰紅山後』にあり、大同からの例は東大考古学研究室の『考古図編』第五輯図版5にある。ただ問題は現用のものが単なる槌子であるのに、先史時代のものはおそらく闘斧であり、また闘斧からでた権威の象徴ででもある点である。[…]先史時代から現代にいたる連綿たるかたちの上の伝統をみるが、しかも同時に、その用途の上の変遷をみのがすわけにはゆかないのである*13


槌子(『学海』3-2より)

 

 雲岡調査の折に見かけたであろう、大同の人々が石炭を割るための「槌子」は、おそらくいたってありふれた民具に過ぎない。それを丁寧にスケッチして控え、東亜考古学会の発掘で得た金石併用期の出土品などと比較し、人類史の流れのなかでフォルムの持続と用途の変化を展望する。人々の生活への細やかなまなざしとスケールの大きい歴史観が同居した考察は、考古学者であり、かつ、ミンゾク学者でもある水野ならではといって良いだろう。

 

 敗戦後、中国大陸への道を断たれた水野は、戦中の調査成果の整理に明け暮れつつ、東亜考古学の次なる一手を模索した。対馬(1948年)、壱岐(1950〜61年)といった国内の辺境地帯での発掘は、その渇望の現れであり、そしてその情熱は、イラン・アフガニスタン・パキスタン調査(1959〜1967年)として実現されることとなる。1945年に大陸調査の道を断たれてから、足かけ15年後のことだ。

 

 『学藝』1947年4月号の「編集後記」に(なぜか仮名文字で)敗戦後の水野の心情が綴られている。最後に、少し長くなるが全文を掲げておこう。

 

 このごろ ワシントンのアッカー・グレンさんから はがきが とゞいた。それはほんの クリスマスとしんねんのあいさつであつた。しかし、わたくしは アッカーさんが とびまはつてゐたそのころの きやうとをおもひだし、また じへんちゆうに ひきあげていつた かれの すがたを おもひうかべた。そして この すうねんかん そういふひとたちと まつたく ひきはなされてゐた われわれの せいくわつを ものどほく こゝろに うかべた。もはや たいへいやうの かべは とりのぞかれた。われわれは せかいの くうきを ぢかに すふことが できる。につぽんの なかだけに うつせきしてゐた おもくるしい くうきが せかいの はてはてまで ひろがつて、かたがかるくなり、あたまが すがすがするのをおぼえる。
じつとみてゐると、すみのほうにはつてあつた きつてに FOR THE INCREASE AND DIFFUSION OF KNOWLEDGE AMONG MEN.そして1846. SMITHONIAN INSTITUTION. 1946とかいてあつた。スミソニアンさうりつ 百ねんのきねんきつて である。これでは やはり せんそうに まけたとともに ぶんかでも まけてゐるといふかんをあらたにした。それは さうりつ 百ねんの ふるさを いふのではなく、じんるいの ちしきのぞうだいとふきゆうの ための、をゝしく たゝかつてゐる アメリカの すがたをみるからである。

                                            (みづのせいいち) *14

 




   
*1   貝塚茂樹1973「雲岡石窟刊行の経緯など」貝塚茂樹・日比野丈夫編『水野清一博士追憶集』京都大学人文科学研究所内「水野清一博士追憶集」刊行会、p. 82。以下、『追憶集』と略記。また、年譜事項は同書所収略年譜による。
   
*2   東亜考古学会については、本稿で取り上げる当事者の著作のほか、坂詰秀一『太平洋戦争と考古学』(1997年、吉川弘文館)を参照した。
   
*3   吉川幸次郎1973「水野清一君挽詩」『追憶集』p. 12。
   
*4   同前p. 13。
   
*5   同前pp. 14-15。
   
*6   江上波夫1973「弔辞」『追憶集』p. 27。
   
*7   杉村勇造1973「東亜考古学会について」『追憶集』p. 41
   
*8   江上波夫他2000「先学を語る―水野清一博士―」東方学会編『東方学回想 \ 先学を語る(6)』刀水書房 p. 40。
   
*9   水野清一1932「蒙古遊牧民の生活―シリンゴル蒙古見聞録―」『民俗学』4/3-4/4
   
*10   「水野君はこの研究旅行の副産物として多数の土俗品を採集して帰られ、いま京都帝国大学文学部国史第二標本室で異彩を放つてゐる」(末永雅雄1935「東亜考古学の定礎を祝ふ」『考古学』6-6 p. 276)。
   
*11   無記名1943「大東亜学術協会の創立」『ひのもと』6/1 p. 35。
   
*12   5巻11号からスタートしているのは、この時期、出版統制により新雑誌の創刊が許可されず、休刊中の「ひのもと社」から雑誌の権利を譲り受ける形になったためである。
   
*13   みづの・せいち1944「民俗雑陳 2 狼をつく短剣」『学藝』1/5 p.38。
   
*14   水野清一1946「民俗雑陳 11 槌子」『学海』3/2 p. 52
   
*15   みづのせいいち1947「編集後記」『学藝』3/4 (ノンブルなし)。
 
   
   
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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